「願立剣術物語」を読んでみました。
原文
移り写すということ。
分かれるときは二つにして本はひとつなり。
敵の鏡移すと味方の鏡写すとの二つなり。
理をいうときはしかなり。
所作あらわして見るは知恵分別の曇り鏡に覆って忽ち土の鏡となり。
移れども見ず。
写せどもうつらず。
弁舌ばかりにて用にたたず。
理は無尽蔵なり。
理にかかわらず私の才覚を止め、ひたすらに稽古を専らに
行うこと肝要なり。
解釈
移り写すということ。
この二つは理屈では二つであるが、根本的には同じことだ。
自分の鏡に敵を移すということ、自分の鏡に敵を写すということのふたつでる。
敵の動作を自分の鏡に移して見るのは、よけいな考えで曇って、土でできた
鏡のように何も写らなくなる。
自分の鏡に移った敵の動きを見てはいけない。
自分の鏡に写った敵の動きは写そうと思ってはいけない。
理論ばかり追いかけてもきりのない話だ。
理論はあとずけだ。技ができてから、その結果として理に叶っているというだけだ。
小賢しい自分の浅知恵は役に立たない。
ひたすら稽古あるのみ。
これが大切だ。
コメント
理論ばかりにこだわると、敵の動きを自分の浅知恵で把握しようとする。
現実には、あらかじめ用意した理論通りにはいかない。
したがって、さらに理論を否定して、自分の浅知恵で動こうとする。
自分の浅知恵など、相手にはすぐ読まれてしまう。
稽古で身に着けた動きならば、相手は理解できない。
理解できないので技にかかってしまう。
なぜなら、その技は理論的に正しいからだ。
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