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月の音を奏でて。【ショートショート 】彼 ver.

「音楽を文章で表すって、どんなだろね」

そういうと彼女は、「蜂蜜と遠雷」というタイトルの本を手に取った。直木賞と本屋大賞をダブル受賞した有名な本だが、彼女にとってそんなことはどうでもいいらしい。1ページめくった文字たちが彼女を本の世界に引きずり込んでくれるかどうか、必要なのはそれだけだった。



「四月は君の嘘」という漫画がある。

母の死によってピアノの音が聴こえなくなった天才ピアニストが、自分の音を取り戻していく青春ストーリーだ。漫画ならば、表情やしぐさ、背景、効果音でさまざまに音を表現することができる。しかし、これをただの文章のみで表現しなければいけないのだとしたら。

その興味のみで、彼女はこのやたら分厚い本を即決した。高校生なのだから文庫本でもいいようなものの、「ハードカバーの手触りがいいの。じゃなきゃつまらない」という理由でわざわざ高いほうを買った。愛おしそうに本の表紙を撫でる姿に、若干本がうらやましい。


彼女は小さい頃ピアノを習っていた。高校の合唱コンクールで演奏を任される程度の腕。音楽コンクールに出たこともなければ、プロの個別指導を受けたこともない。しかし、彼女のピアノはまるで一音一音にそれぞれ色が付いているかのように鮮やかでダイナミック、嵐のように僕を巻き込んでいく。


「演奏って、その人そのものを感じとることができるんだね。私もそれくらい必死でやってれば良かったかなぁ」

ある夏の帰り道。

読みかけのその本をバッグに仕舞いながら、彼女はそうつぶやいた。茜差す夕暮れに照らされて、長いシルエットが僕らの前をゆっくりと歩いていく。楽器にほとんど触れたことのない僕に音楽はわからない、と素直にいうと彼女は照れくさそうに笑った。


「きっと夢中になればなるほど、音に人生が注ぎ込まれていく。音ひとつひとつに表情がついていて、それが一つの曲を作り上げる。すべての想いが集まって、爆発するみたいな感覚ね。前に発表会ですごくうまい子の演奏を聞いたときも、たしかそんな感じだった」

彼女が嬉しそうに話すのを見て、じゃあやってみればいいじゃん、という言葉をいおうとして呑み込んだ。一度やり始めたら、きっとどんどん夢中になるに違いない。ピアノ漬けの日々、こうして二人で帰ることもなくなってしまうだろう。

同じ帰り道をただ肩を並べて歩く、唯一の時間。隣の幼なじみがメロディを口ずさみながら、指で空をなぞり音を紡ぐ。その仕草につい見とれた。夕陽の光が当たって、まるで金色の音符が指から飛び出して流れていくようだ。


「なに?」
「やればいいじゃん」


目があって、つい反射的に答える。しまった、と後悔した。こんなこというつもりはなかったのに。彼女が空で鍵盤を弾くその姿と夕焼けがちょうど重なる。そのセピア色の影があまりに美しくて、ずっと見ていたいと思った。


「やりたいならやればいい。何かを始めるのに遅いなんてことないし」

実は、僕の母が今更ながら小説を書いている。50にもなって無駄だろうと思っていた父と僕を尻目に、自力でKindle出版を果たし、さらに小さな出版社の賞まで獲った。今更といわれても諦めなかった母は、今人生で一番輝いている、と自分でいっていた。大げさだけど、今の自分をそれほど好きになれたら、生きるのがどれだけ楽しいだろうか。


「ありがと」

僕の母のことを知っている彼女は、嬉しそうに微笑んだ。吹っ切れたような横顔に少し寂しさを覚える。触れそうで触れられない細い指が、再びオレンジの小径に音を重ねていく。曲名はよくわからないけど、陰り始めた路地から涼しい風がそっと撫でていくようで。僕らはそのまま言葉を交わすことなく、ゆっくりと歩き出す。

沈んでいく夕陽が空から色を奪い去り、白い月がそれを追いかけていく。この月に音を乗せるとしたら何だろう。無知な僕は授業で聴いたショパンのノクターンくらいしか思い浮かばない。ひそやかで、でも確かにそこに感じるもの。音楽はきっと、いつもすぐそこにある。


どうか、この笑顔が曇ることがありませんように。

その今にも消えてしまいそうな月に、僕はそう願わずにはいられなかった。




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