見出し画像

サブテクストが必要で長くなる

今書いている作品が、物理的に上演時間が長いものになるのではないか、と思った理由の一つにサブテクストが必要だと思いはじめたことがある。というのも、俳優がある演技を選択する根拠や安心感となり得るものが、演劇の現場では充分に説明されているのだろうか?という気持ちになってきたからだ。

サブテクストは、キャラクターやストーリーの状況を補足するというだけでない。その作品が前提とするものの共有もまたテクストの世界の中で行えた方がよいのではないかとわたしは考える。

これまでは演劇の形式としての表現を優先させてきたが、最近になって、書きたいことを書いてよいのではないか、ということで自分を許せるようになってきた。自分のセクシャリティを前提とした物語を書くことで、個人の内実が先行して考えられることへの抵抗感があったから、その選択を取ることができないでいたのかもしれない。それは演劇の形式の技術がないのに、内実が先行して捉えられることを勝手に怖いと思っていたのかもしれない。

女性の作家は女性性について、男性からも女性からも書くことを望まれている?という圧力を少なくとも感じる環境にあるのではないか、と思う。もしかしたら、わたしが考えすぎだったのかもしれませんが。あなたは女性の作家なのだから、母殺しの物語を書いた方がいいと、年上のえらい人に言われたこともある。最悪な体験もあったから、性別や内実だけで見られたくない!という抵抗があった。形式で隠さなくても、書きたいことを書いてよいということになってきたから書いている。

しかし、恥ずかしいことも書いているのだからテクストは大切に扱ってほしい、というわがままな気持ちも出てきていて、なんてわたしはわがままなんだろう...と最近とても思う。

では、テクストを大切に扱ってほしいという前提はどうやって伝えるのか?となった時に、これはサブテクストで伝えることが必要なのではないかと思った。もちろん、そんなのは、サブテクストじゃないだろ、と思う人もいるかもしれないが、わたしにとっての書きたいことが、セクシャリティの問題と聞くことや演劇それ自体についての問題の2つにあるのだとすると、どちらもテクストの中に入れ込む必要がある。だから、演劇をつくる演劇の物語がやりたいと思っていたのかもしれない。

セクシャリティの問題などは座組みで話す時間を取るのですかという質問を最近されて、話す時間を積極的に取ると思う、と答えた。しかし、前提となるサブテクストを用意するということも一つなのではないかとも思っている。この作品でなにが言われている?この人物たちは何を思ってこの作品を作ろうとしている?ということはサブテクストでも語れることなのではないか。

セリフを大切に扱ってもらいたいから、サブテクストが必要で、セリフを大切に扱うためのセリフも書く。セリフを大切に扱ってもらいたい、については、わたしが大切なことは言える時が来れば言えるようになるし、聞いてくれる人がいるから話せるようになる、という考えや経験のもと、行われているのかもしれない。言えると思える瞬間は突然やってくる。わたしはベラベラと大切な自分に関わることを話したくなかったし、今もそれは変わらない。聞いてくれる、話してもよいと思えるような環境があって、はじめて話すことができる。

テクストは毎日書き直しているところです。

ここらは追記
今これを聞いていてhttps://open.spotify.com/track/7sH3LbHGVQjbMgyjfPOqyH?si=TRstOcl_TGSRFpmRUJNK5A&context=spotify%3Aalbum%3A0k4wotwMimxKA28F88RZS8 

すごくずっしーんって感じで。

先日彼等くんとお茶をして5時間くらい話したのだけど、その時に過程の話をしていて、わたしは過程や草稿も作家側から示すということにそこまで興味を持てなかったのだけれど、ここまで書いたようなサブテクストはある意味で草稿なのか、というのも思った。言ってなかった、形作ることで見えなくなっているものも含めていくというような。

演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。