天使

深夜の麻布十番を1人で歩く。目的は無い。旅先で暇を持て余しただけだ。今回の旅自体には目的がある。人に会う事だ。それは明日の夜だから、今日は何をしたって良い。見知らぬ土地の夜の空気を吸ってみたかったし、少し誰かと話したかった。

坂を上ると道の両脇には飲食店が並んでいた。店はもう閉まっている所が多い。六本木辺りまで行けばもう少し賑やかなのかな。土地勘が無いから良く分からない。階段状になった広場に腰掛ける。煙草、吸っても良いのかな。考えながらぼんやり座っていると煙草の匂いがした。誰かが吸っている、ならとわたしも煙草を火をつける。そう言えば、今日は昼新幹線に乗る前に一本吸ったきりだった。煙が体中に回っていく感覚がする。

「こんばんわ」

見るとスーツを着た小綺麗な男が右隣に座っている。全く気が付かなかった。わたしよりも年上だろう、少し微笑みながら煙草を右手に持ってこちらの顔をのぞき込んでいる。挨拶を返すと男は嬉しそうに笑った。

「お姉さん酔っぱらいの話、聞いてくれる?」

確かに酔っているようで、少し顔が赤く目も据わっている。話がしたいならこちらもありがたい。飲み屋に連れて行かれるのは面倒くさいし、今日は外にいるのに丁度良い気温だ。

俺にはね、天使がいるんだ。男はそんな風に話し始めた。

天使って言っても人間なんだけどさ、女の子。顔じゃ無くて、もちろん顔も良いんだけど存在がさ、天使なんだよ。良い子でさ。初めて会ったのは高校の時だからもう20年近く前。馬鹿みたいでしょ、20年も同じ女を天使だとかさ。俺とタメだからもう30後半とかで世間じゃもうばばあって奴なんだけど、なんか駄目なんだよな。あの子だけは。

男はたまに聞いているか確認するようにこちらを見て、頷いて促すとまた話し始める。本当に深く酔っている様で、子供のようだ。

高校の時、俺はサッカー部であの子は美術部。絵が凄い上手くて、1枚もらったんだ。今でも家にあるよ。嫁さんに勘ぐられないように仕事の鞄に隠してあるんだけど、たまに1人の時に出して見たりしてんの。
ある時さ、俺が練習で転んで足が血まみれになったんだよ。そしたらあの子、どっかで見てたみたいでそばに寄ってきてくれて手当てしてくれたんだよ。あんまり話したことも無かったからびっくりしたんだけど、うれしかったなぁ。それが高1ね。そっからの3年間は天国だったよ。なんたって天使がずっとそばに居るんだから。俺さ、別に恋人になりたいとかそんな風に思ったことは無いんだよ。ただ生きていてくれればそれで良い。天使の人生に俺なんかが関わるの、なんか変だろ。

卒業して違う大学に行って今でもやりとりは年賀状だけで、多分その間にも彼氏、何人か居たみたいなんだけどさ、あの子が幸せならそれで良かったし結婚のハガキが来たときは本当に嬉しかったんだ。ウエディングドレスのあの子、本当に天使みたいにきれいだった。

彼は新しい煙草に火をつけて煙を長く吸い込んで吐き出す。わたしは彼の話をもっと聞きたいと思い始めていた。天使の話をする彼は自分にとっての神さまを本当に信仰しているかのように恍惚の表情をしている。

「彼女は知ってるの?」

煙草をくわえたままこちらを見る。質問の意味が分からない様だ。

「あなたの天使が自分だって、知ってるの?」

彼はどちらの意味か判断できない笑みを浮かべている。20年もの間、自分をただ天使と信じある意味愛し続ける人が居るという事実はどう受け止められるのだろうか。それ以前に受け止めてもらえるのだろうか。信仰を、拒絶することは残酷だ。

「今日ね、同窓会だったんだ。5年ぶりの」

笑みを保ったまま遠くの方を見ながら彼は言った。きれいな横顔だ。あまり、見つめない方が良いかも知れない。少し離れたところからは車の走る音が絶えず聞こえてきている。心がどんどん苦しくなってきた。

「…だからいっぱい飲んじゃったんだね」

はっとしたようにこちらを振り返りわたしの顔をまじまじと見つめて、しばらくしてから笑みの消えた顔で消え入りそうな声でうん、と言った。

「知って欲しいなんて更々思ってないし、伝えるつもりも無いよ。だけど今日久しぶりに話したら、初めて彼女に触れたいと思ったんだ」

車のクラクションが鳴っている。赤いライトが点滅している影が見える。先程までの饒舌さが無くなって、彼は遠くを見つめながら自分の内面を探っている。

「…何年経っても、何が起こっても、彼女は俺の天使なんだ」

彼の告白を聞いてわたしの心は痛いほどの悲鳴を上げている。苦しいだろう。天使には、触れられない。だから信じられるのだ。触れたいという願いは、自分の信仰を、自分の根幹にある感性を否定することになると同時に信仰の対象からひかりを奪う可能性だ。
触れずに近づかずに、外から見れば愚かなほどにただ盲目に信じ続けることが唯一の道だと、わたしたちは知っている。

立ち上がって、彼を見る。帰るのだと察して彼は思い出したように笑みを作って礼を言う。彼を見下ろしながらわたしは笑顔で彼に言う。

「わたしにも、天使がいるよ」

その言葉を聞いた彼は途端にまた笑みを忘れて目が潤む。両手を広げると躊躇わずに立ち上がり、飛び込んでくる。

わたしの天使も煙草が好きなの、と耳元で告げると彼がほんの少しだけ笑ってくれた。

名前すら知らない2人はただ抱きしめ合って、苦しみを受け入れ合う。遠くで聞こえるクラクションが頭の中で反響して広がっていく。

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