見出し画像

向田邦子とか内館牧子とか

向田邦子のエッセイが嫌いだという日本人はそうそういないと思っているけれど、そして私もやっぱり好きだ。

何でだろう、って考えた時、やっぱり人間って弱いものだよね、っていう思いや、それを見つめるあったかい眼差しみたいなものがあるからかなあ、って。

私にとっては、そういうところが好き。


もう一人、好きな脚本家でありエッセイストが内館牧子。

この人は、絶対に綺麗事だけ書くようなことをしない、から好き。

内館さんがOL(死語かもしれないけど)時代のことを書いたエッセイがたくさんあって、それは、男女雇用機会均等法すらできる前の時代、女はお茶汲み、働くのは結婚前の腰掛け、25過ぎたら売れ残りと言われて会社にいづらくなるような、今からは想像できないような、そんな時代のことを書いたエッセイ。

OLとして、会社員として仕事をしながらも、脚本家スクールに通ったり、大好きな相撲に関わる仕事がしたいと探したり。
エッセイを書いた当時にはもう既に朝ドラや大河ドラマの脚本をも手掛けるようになっていた内館さんの、迷い、悩んでいた時代のあれこれが綴られている。

20代の頃の私は、それを読んで、とてもとても勇気付けられていた。

それは、全ての働く女性への、迷い悩みながらも幸せになろうともがきながら日々頑張って生きている女性へのエールのようにも思えていた。

中でも印象的だったエッセイのひとつが、平安時代の女性について書かれたもの。

平安時代の女性ってみんな長くて美しいストレートの黒髪で描かれているけれど、絶対にそういう髪質ではない女性もいたはずだ、って。
チリチリの天然パーマの女性とかは、大きなコンプレックスを感じていたに違いない、って内館さんは言う。

みんなみんな、いつの時代の女性も、コンプレックスに悩みながら生きてきたのよ。
私は私、コンプレックスを乗り越えた、って思っても、また弱気になったりもする、そんなもんよ、それでいいじゃない。

女性の、もっと言えば人間のことを綺麗事だけじゃなく知っているからこそ、いろんなことを見つめてきたからこそ書ける、内館さんからのあったかいエールでありメッセージのように私には思えたのだった。


このnoteで、私は、フラワーエッセンス絵日記さんという方をフォローさせてもらっているのだけれど、その方は、平安時代や源氏物語にお詳しく、そしてフラワーレメディにもお詳しい。

その中で、「源氏物語に登場する女性たちに合うフラワーレメディは?」という観点から書かれている一連の記事があって、私にとっては、とても興味深い。

多分、内館さんの、どんな時代の女性も悩みながら生きてきた、っていう眼差しと似ているからかな、って思ったりする。


自分より年上の人や、何か成し遂げたり華やかな表舞台に立ってる人って、なんか、何の悩みも苦労もないような気がしちゃうことがある。
私はそんなふうに、上っ面しか見えないような時がある。

でも、決してそんなことはなくって、どんな人も、それぞれの悩みやコンプレックスを抱えて、その日その日を一生懸命生きてきたし、それは、ずっとずっと太古の昔から、いつの時代の人もそうだったんだろうな、って。

その延長に、今、私たちがいる。

だから、私が悩むのなんて当たり前、なのかもしれない。


歴史の教科書で、◯◯時代は何年続いて、こんなことがあって、とか、戦後の人々の暮らしは、とか数行でしか書かれていなくても、でも、そこにあったのは一人一人の、たくさんの人間たちの営み。

本当は、十把一絡げには決してくくれないはずのもの。

泣いたり笑ったり、悩んだり、ヤケになったり、もしかしたらつらいことのほうがずっと多いかもしれなかった人生とか、一人一人の越えてきたそういう日々で、できあがっているもの。

歴史を学ぶ意義って、そんな、いつかの時代の誰かも、一生懸命生きてきたのかもしれない、っていうことに想いを馳せるところにあるのかもしれない、と思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?