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「女記者が見た、タイ夜の街」プロローグ:タニヤで見た沈みゆく船

2015年、私は初めてタイのバンコクにある歓楽街、タニヤ通りを訪れた。

きらびやかな日本語のネオンの下、カラオケクラブや風俗店がひしめく。「リトル歌舞伎町」とも呼ばれるこの通りには、露出した女性らが、何列にも並んだ椅子に座って客を待ち、商品のように陳列されていた。

そのそばで多くの日本人男性が一目をはばからず女性を吟味し、気に入った娘と店の中に入っていく。日本の歓楽街よりはよほど派手に、正々堂々と公で売られる性を目前に、女性の自分はただただ驚くしかなかった。

しかし、2019年に始まった世界的な新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、世界屈指の観光都市であるバンコクから、観光客は徐々に姿を消した。飲食店は厳しい営業規制の対象となり、タニヤのクラブも、しばらく営業そのものができなくなった。仕事をなくした女性らの多くは故郷に帰って行った。

その後、コロナの感染状況が落ち着き、外国人に対する入国規制や、飲食店への営業規制は全て解除されたが、いまでもタニヤに以前のような賑わいはない。タニヤで働く女性らは、「日本人は全然いなくなってしまった」と口をそろえる。

また、ある女性は、「お客さんがきても、昔みたいにたくさんのお金は遣わなくなってしまったね」と寂しそうに漏らす。タニヤに店を出すオーナーによると、タニヤ通り全体のクラブの数は、最盛期の半分以下になってしまったという。

「タニヤは日本の世相を反映している」と指摘する人もいる。

日本企業がタイ進出を本格化させた1970年代、当時の東京銀行(現・三菱UFJ銀行)がオフィスビル「タニヤビル」に入居したのを機に、同行と取引のある企業が続々と支店を移転させてきた。これを受け、近くのタニヤ通りは現地の駐在員や出張者を癒す場として発展し、日本式のカラオケクラブが相次いでオープンした。そのため、バンコクの他の歓楽街と比較して、タニヤの女性たちは日本語を学び、話せる人が多い。

その後、日本経済が失速し始めると、企業の交際費削減や、タイの物価上昇、バーツ高進行の影響を受け、タニヤから日本人の足が遠のき始めた。そこに追い打ちをかけたのが新型コロナだった。

さらに現地の駐在員らに話を聞くと、後に日本人が多く住むようになったスクンビットエリアからタニヤが遠いことや、個人の価値観の多様化に伴い、接待の形式が変化していることなど、タニヤから日本人が減っている原因には、さまざまな要因が混ざり合っているようだった。

17歳からタニヤのクラブに働き始め、現在40代になるママがこんなことを言っていた。

「日本人はどんどん少なくなって、店が暇な日も増えた。でも、他の外国人が多いエリアに移るつもりはないよ。だって、私はずっと日本人に接客してきたし、もうどこにも行けないから」

彼女はタイ人でありながら、日本人が大事にする気遣いやマナーを習得したプロで、「金づる」にならない女性の私に対しても、終始抜け目のない心配りをしてくれた。

しかしながらその物言いは、沈みゆく船に乗りながら何かを諦めたような、一種の決意にも聞こえ、それは現在の日本全体に蔓延している空気と、どこか通ずるものがあった。

私は、タニヤの変遷を知りたいと思った。タニヤを通して、いまの日本が見えてくるような気がしたのだ。

同時に、さまざまな境遇に置かれながらもたくましく生きる、タイの夜の街で働く女性らのことも、もっと知りたいと思うようになった。


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