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#4 山田コニーのおことばですが、、、(「夕暮れの代弁者」森山直太朗)

RistのPRの山田です。コニーです。こんにちは。
この企画は、私やあなたの好きなことばをそっと切り取って、主観的にことばの解釈・解説を行っていきます。ことばは出会うタイミングや、出会い方によって様々な見え方ができます。あなたの解釈はあなたのものですし、私の解釈は私のものです。ただ、その出会いは偶然でも、きっとあなたの人生を変えてくれるモノになるはずです。
素晴らしい出会いに今一度向き合ってみましょう。
そこからあなた自身が生み出すことばのヒントになってくれればと考えています。
コピーだけでなく、名言や、漫画の中の一節など面白いものがあれば拾っていこうと思います。
みなさんが好きなことばの僕なりの解釈もしていこうと思いますので、好きなコピーやセリフなどがあれば是非教えてください。僕自身もあなたによってもたらされる新しい「おことば」との出会いを待っています。

今回のおことば

今回はTwitterでも紹介した、僕の一番好きなキャッチコピーをとりあげようと思います。

「夕暮れの代弁者」 ー森山直太朗

森山直太朗さんがかつて使っていたコピーです。
「夕暮れの代弁者、森山直太朗です」みたいな感じで歌う前にいつも言っていて、とんでもなくかっこいいなと僕は思っていたんですよね。あまり誰も突っ込んでなかったけど。

その後自身の曲でも「夕暮れの代弁者」という曲をリリースするんだけども、曲をリリースするくらいにはこのことばに強いこだわりがあったんだろうなと容易に想像がつくよね。

森山直太朗という人物

皆さんは森山直太朗さんに対してどのような印象をお持ちでしょうか?印象なので人それぞれではあるし、出会い方にもよるけれども、僕はとてつもないこだわりと、それでいて哀愁がある人やなぁと思っています。

デビュー当時は森山良子さんの息子であることを隠し、とにかく自分の曲で売れるということにこだわっていたようです。曲自体には絶対的な自信があるものの、売れない。とあるキッカケでカミングアウトをするんだけど、そこからはもう皆さんが知るところになる。

有名な楽曲たちもたくさんある訳ですが、それ以外にも自分自身の音楽との戯れがわかる曲や、独特の目線を持った歌詞の世界観などが音楽家・作詞家だなと思わせる。圧倒的に僕たちとは見ている世界の角度が違うんだろうなと感じる、ある意味とても危うい世界観を感じることさえある。彼が音楽で見せたいのは、そんな彼にしか見えない世界を表現することではないのでしょうか。それ故に彼は孤独であり、哀愁があるのだと思っている。

その気持ち、意気込みが歌う前に伝える

「夕暮れの代弁者、森山直太朗です」というおことばなのだろう。

第三者目線で届ける彼の世界が、彼の音楽の中には渦巻いているのです。

別の曲では
「もはや僕は人間じゃない」とも言っていたっけね。

おことばですが、、、(解釈・解説)

「夕暮れの代弁者」ー森山直太朗

今回のおことばの解釈に入っていきましょう。

日本人が「夕暮れ」と聞いて呼び起こす情景

まずは日本人の「夕暮れ」に対するなんとも言えない感情。日本人は侘び寂び文化でもあるので、散っていくものとか、去っていくものに対して特別な感情を持っています。夕暮れもその去り際の時ですよね。類語でいうと、「黄昏」なんて言葉もあります。
この「黄昏」はよく「黄昏れる」なんていうふうに動詞でも使われますね。「黄昏れる」は口語的に使われているのは「おセンチな感じ(古い)で遠くを見つめている」時とかに使われますがこれは間違いで、実際の意味は「1 日が暮れて薄暗くなる。2 盛りを過ぎて衰える。」の意味です。出た、衰える。

「黄昏れる」がおセンチな感じで遠くを見つめてる〜みたいに使われるというのはどこからか分かりませんが、そのイメージも相まって、おセンチな感じというのは夕暮れのイメージにはある。

遠くに沈んでいく夕陽を見ながら、そこに人類や世界の栄枯盛衰を重ね合わせちゃったり、終わっていく1日に対してもの思いに耽ったり、なんとも言葉にできない感情を抱いたりする訳ですな。これ、ほんまに言葉にする術がない。あるなら教えて欲しい。なんでこんなに侘び寂び文化で、興味のあるものに対して似たような単語をたくさん作ってきたにもかかわらず、この感情を表す言葉がない。

アーティストが作品を作り出す時間帯

これ、完全に僕の偏見ですが、アーティスト・特にミュージシャンには作品を作るのに得意な時間が存在する。朝・昼・夕暮れ・夜・深夜・明け方など。もちろん一日中作っていたりはしますが、各々ボーナスタイムのような時間帯が存在します。もう一度言っておきますが完全に偏見です。僕はそうでした。

僕は夜中に作ることが多かったんだけど、夜中に夜中の曲を作ることはほとんどなかった。夜中に夕暮れのあのおセンチな、エモい感じを思い出して作る訳です。あとは明け方に夜中の、静けさを思い出して作ったりする。
そんなこともあって、森山直太朗は多分夜型だと勝手に思っている。夜型だからこそ、夕暮れに想いを馳せることが多いんじゃなかろうかと。夕暮れ時はそれこそ多分黄昏れてる(誤用)んじゃないかと思っている。

本題:このおことばの凄さ

さて、前提条件をいくつか挟んだところで本題に戻しましょう。「夕暮れの代弁者」というおことばには、視点が複数練りこまれていることが考えられます。

まず一つ目におことば通りの意味。
夕暮れの代弁者→夕暮れ視点で夕暮れが伝えたいことを、歌にして伝える人。夕暮れ自体が、暮れゆく街や僕たちに対して、何か去り際に言いたかったこと、伝えたかったことがあるんだろうか。物憂げな落日は、僕たちに明日への何かを渡して夜を連れてくるんだろうか。
その言葉を森山直太朗は代弁してくれる。物言わぬ者のメッセージ、世界や社会、人間という存在に対して、とても大きなものからの力を僕たちに作品を通して見せてくれる存在なのだろうと思う。

そして二つ目。
そもそも一つ目で「あれ?」って思った人一定数いると思います。いるよね?「夕暮れの代弁者」を冷静に言葉の意味通りに解釈すると、一つ目の解釈が正しいんですよ。良く考えたら分かりますよね。

でも、多分一定数は先ほど出てきた、夕暮れに僕たちが抱くであろう、あの言葉にできない感情を代弁してくれると意味を取ってしまうでしょう。凄まじいイメージの強さ。夕暮れと聞いただけで、あのおセンチでノスタルジックな独特な感情を我々は思い出し、おそらくかなり多くの人が、「言葉にできない」という共通の体験があるはず。だからこそ、この言葉にできない感情が言語化されることを心のどこかで期待してしまっているのですね。
そんな期待があるからこそ、森山直太朗はその感情を歌によって、代弁し僕たちがきっと持っているだろう共感覚を震わせてくれるんだろう、と考えてしまう。

そして、それが森山直太朗ならできるんではないか、と思ってしまうというのも一つのマジックだ。

森山直太朗は夜中に夕暮れ時に対して想いを馳せて曲を作ることが多いんじゃないかということなんだけど、夕暮れに対する僕たちの言葉にできない感情。これを言語化するためには、非常に丁寧な作業が必要になる。人々が眠りにつき静寂が訪れた夜に、丁寧に、静かに去っていった夕暮れに向き合い、一つ一つ言語化していく。ひたすら孤独にそれに対して向き合えるからこそ、あんなに繊細な言葉が生まれてくる。
そこを僕たちは無意識に感じ取っている。それが彼の孤独や哀愁を纏った唄に乗っていることを僕たちは知っているのだ。

おわりに

今回のおことばは、そのおことばが持つ力だけでなく、それを使った人のアイデンティティが乗っかることによって、より説得力が増すという例でした。
このキャッチコピーが例えば斉藤和義とかが使ってたら、結構イメージ変わると思うんですよね。意味合いは一緒かもしれないけど、漂う哀愁の加減とか孤独感のような感じは出てこない。多分もうちょっと擦れた感じになる。
今回は森山直太朗だからこそのおことばです。

これって結構すごいことじゃないですかね。彼がことばを紡いでいるように見えて、ことばが彼を選んでいるような不思議な感覚。ことばに選ばれるというのは、ことばを生業にしている人々は時々出会う感覚ですが、キャッチコピーとかでここまでズドンとハマってしまうのもなかなかないですよね。

そんなことばにいつか出逢いたいなぁと思ってしまいますね。

では、また次回お会いしましょう。


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