存在への希求、エロティシズムについて

(副題: 性愛は愛たり得るか、それとも悪徳か。バタイユのエロティズムに対する視座を通じて)

はじめに

—愛と性愛―

 恋愛は人類史が始まって以来人間にとって重要な関心事の一つである。古来よりあらゆる文学、戯曲、その他もろもろの芸術作品のテーマとして扱われてきたし、古代の人々の政事と密接にかかわる神話のなかにさえ—それこそギリシアの神話のように—恋愛の情は描かれる。誰かを恋慕すること、そして恋愛という観念の元他者と関係を築くこと自体物語性を帯びており、それはある意味人間の善性や理性の産物―翻っていえば動物的衝動ではなく叡智による文化である―のようにも思える。仮にこれが過言であっても、恋愛にまつわる情動や物語はあらゆる表現媒体として置換可能であり、人の文化的、社会的営為と密接にかかわることは疑いようがない。

しかし、あらゆる芸術や娯楽が恋愛の謳歌を賛美しようとも、はたしてそこで描かれる恋愛の姿が現実の関係においてどれほど正当性を持つかどうかは疑わしい。多くの場合恋愛への目覚めは思春期の性への関心と同時的に発生する。かの文豪芥川龍之介は『或阿呆の一生・侏儒の言葉』にて「恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに値しない。」(芥川, 1969, p266)と語るように、恋慕の原動力に性的欲求が絡む可能性を否定できない。また彼の言葉を押し述べるのであれば、恋愛とは何かしらの表現活動によって性欲を言い換えたものであり、現実において恋愛関係と呼ぶところの活動とは当人たちが意識しようがしまいが性衝動によって引き起こされる行為にほかならないともいえる。

なるほど、恋愛関係においては精神的な結びつき以外にもしばしば身体的な接触に対する欲求や直接的行為が引き起こされる。撫でる、抱擁する、キスをする、あるいは性交する。こうした光景はその背景が倫理的であれ、背徳的であれ、しばしば多くの表現において恋愛関係を象徴する行為として描かれる。しかし考えてみれば、これは主従が逆だ。言い換えれば、こうした身体の接触が恋愛感情を特徴づける行為なのではなく、第一に我々は身体的な接触を求め、その適当な形―社会に対して表明するにあたっての正当な理由―として恋愛関係を築くのではなかろうか。

そう考えると芥川の弁も厭世的だと一蹴するべきではないのかもしれない。その一方でやはり芥川龍之介の物言いは人が生来持つだろう性欲やそこから生み出される性愛の情に対する幾分かシニカル眼差しが見られる。

確かに性欲とは常に社会から秘匿されるものだ。その理由を端的に述べれば性行為には不可避的に恥や汚濁が関わると受け入れられているからである。また現代にもみられる厳格な性道徳に当てはめてみれば婚姻や恋愛関係というある種の契約なしに性交渉に及ぶことは、人間が持つ倫理や理性的な装いを排し、自身の欲望に支配されているとも言える。性にまつわる礼節や社会的振る舞いにおいては、その必要性についてそれなりの理解を示しつつ、その傍ら人間的な活動へとその議論の範囲を押し延べてみると一概に道徳不道徳と切り分けることができない。性欲が獣性のような野蛮で非人間的な欲求ではないという仮説とその応答については本論における主要なテーマである。


 さて、ことの発端はそもそも性愛を発端とする他者の希求が低俗であるとどうしていえようという問いである。さらにいえば、人間が人間の身体を欲望することがどうして低俗だといえるのか。現に私と一人の他者の関係性を想定すればそこに置かれるのは実存する一人の肉体である。その生身の身体に垢や汚れ、一つの痘痕もないなどあり得ない。私たちはギリシアの彫刻でも聖母マリア像でもないのだから。身体が必ず備え持つ汚濁を知りつつ、それでもなお、一夜のうちに偶然隣にいた相手をまるで百年越しに会ったように求めあう出会いと情熱が他より劣ると言い切れるほど我々の現行の道徳は崇高なのだろうか、あるいは妥当性をもったものなのか。

この問に至った経緯の一つにバタイユが語るエロティシズムへの見解にある。彼が編集長を務めたグラビア雑誌『ドキュマン』における「足の親指」において、むしろ臭気を放つ親指が魅惑に転じるという衝撃の論述によってであり、彼のエロティシズム論に通底する対立する二項を統合していく試みを分析しながらエロティシズムという概念を考察することによって、性に対する観念に対して新たな視野を広げ、今後の性にまつわる議論を活発化させることを目的としている。


 これから論じる性愛に関する考察は倫理や道徳の破壊を目的とするのではない。恥や不義として隠蔽されながら、我々に避けようがなく湧き上がる性への情動について今一度光を投じることによって我々の愛の形に対して弁証法的にその価値を押し広げようという試みであり、ごく個人的な動機を述べれば、生まれながらにして避けようがない男性的身体の暴力性への自覚、あるいはその原罪への贖罪と反抗でもある。


 ゆえにこの論が単なる叙情詩的論述に陥らないためにも、まず第一章では性欲と性行為という二つの語義について一定の定義と方向性を提示する。その次に第二章ではバタイユの著作に触れながらエロティシズム論を主に扱いつつ、適宜前章を参考にすることでバタイユのエロティシズムに対する独自の見解を構築する。第三章では、これまでの章で論じてきたエロティシズムにまつわる事柄をまとめなおし、エロティシズムが二人の性愛関係の中でどのような役割を果たすのか提示する。


 尚、本来であれば原文を参考にすべきだと思われるが、著者の翻訳能力の不足のため、適宜訳書を用いて考察していくことをあらかじめ了承いただきたい。



第1章 性欲と性行為について

1. 性欲について

我々を性愛に至らしめる動機には性欲がある。この節では、まず性欲という語義を定義しなければならない。

そして性欲の定義を語るにあたって、注意せねばならないことがある。フロイトによれば、性欲の興りを以下のように語っている。


 新生児は、性欲にさまざまな蠢きの萌芽をすでに携えてこの世に生まれてくるということが、どうも確からしいのである。その萌芽はしばらくのあいだ、そのまま発達するのだが、その後だんだんと強くなる抑え込みに屈するようになる。(中略)しかし、幼児の性生活は、二歳ないし三歳ともなるとたいてい、観察可能なかたちとして表されるように思われる。

フロイト, 1901-1906, p77


 しかし、本論では性欲は肉体的な力動であるとともに、精神的な力動であるという両義性を孕んだものと捉えており、必ず性欲の対象は個別性を備えた他者であることを要するものと定めなければならない。もう少し平易な言い方をすれば、今はあなたでなければならないという必要性である。

 というのも、小児期までの性欲とは、自己と他者の境界が未分化であり且つ対象が自ずと自己に向かっていくために他者を要する思春期以降の性欲とはやはり異なる。もっと踏み込んで言えば、性欲が単に性的快楽、オルガスムスへの希求であるのならば、そしてそれが幼児期の刺激や親からの愛撫の反復から由来するのだとすれば、この論の結論はマスターベーションに帰結する。性欲の源泉と性欲そのものの本質との違いを見誤ってはならない。これはこの先も何度も主張することになるだろう。

 つまるところ、フロイトの論には多く参考にできる箇所もあるが、性欲という情動については、幾ばくか幼児期の健忘や道徳に抑圧された無意識の領域であるという考えへの強い執着も見られる。つまり、性欲の興りは過去を原因とし、その現在が結果であるという合理主義的な知見が見られ、今の私の身体と今のあなたの身体という対象との相互的な偶発性について過小評価な点が否めない。

 今回の試みは本来非人間的なものとみなされる性の力動を人間的なものとして捉えなおすことである。したがって、今後の考察ではフロイトの論もいくつか参考にはするものの、それは無意識と肉体性の領域であり、これを否定するも肯定するも、他者の希求という観点を生み出さなければすべての議論が無に帰すだろうことは留意したい。


 それでは性欲とは何か。それは身体、精神の両者において目の前の対象と同一になろうとする欲求である。


 欲望には必ず対象が必要となる。性欲の求める対象について真っ先に想定されるのは、身体的側面については考えればごく簡単で性的快感である。また欲望するということは今この私にはその対象となるものが不足しているとも言い換えることができる。しかし、性的快感が不足しているという物言いは直観と照らし合わせてみれば幾分かおかしいのだが、むしろここに性欲にまつわる多くの誤謬がある。

 あえてここでは別のものに置き換えて考えを深めてみたほうがわかりやすかろう。

 例えば私は冬の朝にたったいま目覚めたばかりである。眠りについてからかなりの時間がたったのか、空気が乾燥していたためか大変のどが渇いている。身体は生理的な必要性から水を欲している。だから水を飲む。こうして水を飲むことで身体の要請からくる逼迫は解消され、清涼さ、安堵といった快感を覚える。反対にのどを潤すものが無ければなおのこと水を欲望するのである。欲望とはいまの身体の状態とその必要性にもかかわらず対象が不足している外界への絶えない応答である。

 多くの場合、性欲の原因が性的快感の不足であり、その充足の手段として性的対象の肉体、または淫猥の表象が必要とするのだと捉えられるのだが、水の例えからこれが大きな誤りであることは明瞭だろう。

性的快感とはむしろ本来人が必要性を要請する何か(上記の例えでいえば水に該当する)が充足されたために興る情動(水によってもたらされた緊張からの解放、上記でいえば清涼さ、安堵といった快感に該当する)であり、性欲の本性とはその何かへの欲望なのである。


 この誤りはフロイトのもたらした性欲の観念にもみられる。

フロイト(1910)は人が初めて性的対象とするのはその人の親である(男性であれば母親であり、女性にとっては父親である)とし、心的インポテンツ—つまり相手に対して十分な性的欲動が興らないこと—の原因を性の対象が親に固着したままであることと道徳上禁止されている近親相姦への抵抗との繋がりがあること、またそれがかなり広範囲にわたって起こりうることを指摘したうえでこう述べている。


多くの男性は女性に対する尊敬の念のために、性的な行為においては自由に振る舞えないと感じており、性的な能力を十分に発揮することができるのは、性的な対象を貶めることのできる場合に限られるのである。これは男性の性目標に倒錯的な要素が含まれているためでもある。男性は自分が尊敬している女性を相手にすると、こうした倒錯的な要素を満足させることができなくなる、こうした男性が十分な性的満足をえることができるのは、その男性が相手にいかなる配慮をすることもなく、自分の性の満足だけを目指している場合に限られるのである。

フロイト, 1910, p43-44


 補足としてフロイト(1912)は貶めることのできる対象の条件とは貞操を持たず誰とでも寝る相手、つまり娼婦のような存在であることだ(p42)と語るが、ここで強調すべき点はその想定される対象が交換可能であることだ。

 娼婦とはその性器が快を得る手段とされる。消費する側の嗜好にあう一定の審美性や属性―例えば、体型や年齢、特定の職業のような装い—さえ備えていれば、相手となる人物の人格は問題にはされない。個別性の排除といってもよいだろう。むしろ、性行為自体が相手を貶めるという道徳的忌避感や禁止によって本来向かうべき対象に性欲を発散することができないために、その代替としてただ性的快楽の発散という形で娼婦性を備えた相手が利用されるのである。

 しかし、この娼婦とのやり取りで行われるのはただ性的快楽の享受であって、性欲それ自体の正常な解消ではない。なぜならば、性欲の対象とは必ず個別具体的な対象とその合一が目的とされるからである。

 多くの場合、性欲とは、それが交換可能な対象であっても性的快楽を希求するという誤謬にばかりが目を向き、それを本来の性欲の本性を取り違えることによって起きるのだと主張したい。

 そして、この誤謬を指摘して初めて、個別性を備えた対象との合一という点にまさしく性欲が精神的な志向性を備えたものとして捉えなおす必要性が生まれるのである。


 では性欲の精神的な力動をどのように捉えればよいのかという点に対し、サイモン・ブラックバーンはホッブズの色欲に対する見解を引用しながら興味深い指摘を行っている。

これなら何もかもうまくいく。AはBを喜ばせる。BはAがしてくれたことに喜び、AはBが喜んでいることに喜ぶ。それがBを喜ばせ、フィードバックの輪は完成だ。Bの喜びがまたAを喜ばせるからだ。循環は永遠に続くわけではない。Aに喜んでいるBに喜んでいるAに喜んでいるBに喜んでいるA……とやっているうちに、どちらがどちらだかわからなくなるからだ。
 しかし長続きさせることはできる。わたしはあなたを欲するし、あなたにもわたしを欲してほしい。あなたにも、私を欲するあなたを欲する私を欲してほしい。そして、うまくいけば、あなたはわたしを欲する。ここには、取り違えも、秘密の計略も、誤りも、欺瞞も一切ない。(中略)
 ここでの快感は肉体の感覚にはとどまらない。もちろん肉体も快感に一役買って入る。「精神の喜び」は何かをしている喜びだ。そうした喜びには自分自身が関係するけれども、いわゆるナルシシズムというわけではない。主題は自分自身を喜ばせることではなく、あくまでも他者を刺激することだ。

サイモン・ブラックバーン,2011, pp132-133

 ここには性欲において精神的な他者との合一を希求することへの明確な示唆が含まれている。

性欲には性的快感によってわたしが喜ぶだけでなく、相手を喜ばせたいという志向性が含まれている。逆を言えば、性欲とは単なる性的刺激の不足から興るのではなく、生来人間は孤独であるという他者の不足であり、そしてその不足を、性行為を通じて、性的快楽を与え合うことによって喜び喜ばせるという相互浸潤によって乗り越えたいという渇望なのである。

 つまり、先述した性欲の根源であるところの心身の必要性が要請する何かに対する一つの回答がここにあるのだ。人が解消せねばならないと感じる状態とはすなわち孤独であり、人が要請する対象とは個別性を持った他者である。多くの場合、その他者とは恋人であり、伴侶であり、想い人であり、愛人である。

 しかし、現在の身体の状態とその必要性にもかかわらず対象が不足している外界への絶えない応答という欲望の原則に照らし合わせてみれば、ここでいう孤独の厳密な語義とは何か、そしてその解消がなぜ必要とされるのかという問いが湧いてくる。

 ここで話を戻して考えてみよう。これまでの思案において、多くの場合、性欲が満たされないためにその代替策として、娼婦的な相手との行為を通じて性的快感を得るのだと主張した。ただし、その相手、あるいはその相手の性器を暗黙のうちには性的快楽を得る手段として用いようと、現実においては最低限のコミュニケーションは発生するだろう(むしろ、表面的にも相手の人格を考慮せず、道具として用いるように振舞うのであれば、それはサディズム的な倒錯として正常な性行為とみなすことはできないという別の問題が発生する。)。

ともすれば、どうやら孤独であるという状態とは、単なる友人づきあいのような人間関係で想定されるようなコミュニケーションの不足とは異なり、もっと根源的なところに答えがあるという予想立てができる。

 思うにこの孤独とは人間の理性によって人格が統合される過程において刻々と刻まれるわたしはあなたと違うという感覚なのだ。

 乳飲み子は快不快を与える他者の存在と自分自身の存在が未分化である。自分に乳を与えようとする母親の姿と乳房の違いを認識することができないように外界を枠組みづけて理解することはできず、自分が排泄した糞便とそれによって不快であるわたしという自己と他者の境界もない。

 しかし成長とともに理性が発達すると世界を秩序立てて認識できるようになる。すると混沌としていた外界の対象一つ一つを区別し、言語によって名付けることができるようになるのであるが、理性が増せば増すほど物事を区別する力は強くなり、乳飲み子の時点では認識しえなかった自己と他者の境界をまざまざと見せつけられ、そしてわたしは孤独であったのだと知る。

 酒井健はソシュールに対する丸山圭三郎の見解を受けて、言語と非言語の領域についてこう語っている。

(前略)しかし、そうだとしても、先行しているのは、言葉の存在なのではなく、当の「カオスの如き連続体」の感性的な体験なのではあるまいか。言語主体がまずこのカオスを感覚的に体験し、それがもとになって言葉が生まれ、その言葉によってカオスが切り取られていったのではあるまいか。まず第一に言語主体が「カオスのごとき連続体」の漠然たる或る部分を、つまり連続体とつながっていながらもどこか表情、気配、感触を異にする或る部分を感性で体験し、「差異の対立化活動」を発動したいと欲したからこそ、新たな言葉は生まれ、社会の中で認知され、当の部分がその言葉によって明瞭に非連続化されていったということなのではあるまいか。

酒井, 2009, p287

 これを踏まえるに、幼児がいる自己と他者の境界が曖昧であるというのは、彼の知覚するあらゆる事物が連なっている状態であるが、しかし言語が事物を対立化させることによって、あるいは差異をあえて強調することによって、事物は切り分けられる。そして、それは己も例外ではなく現実を捉える諸要素に言語―そしてそれは理性といってもよい—の占める割合が増せば増すほど、かつては連続していた外界から切り離され、より一層孤独になるという人間の特性を指摘してよさそうである。

この節では、フロイトへの反論を出発点に、性欲の向かうところは個別性を備えた他者との合一であると仮定した。そして性行為はそれ自体が相手を貶めるものとして抑制され、娼婦のような交換可能な対象を性的快楽の手段として用いることはその対象の個別性を排除するために、決して正しい性欲の発露ではないことも確認した。そして、身体においては性的快感を、精神においては孤独を解消することを志向することが性欲の本質として結論づけたい。ここにおいて残された問いとはその個別性とは何によって担保されるのかという問いだが、それは第2章でふれることになるだろう。



2. 性行為について

さて、ここでは前節で結論付けた性欲が十分に機能しているという前提において、性行為について語っていきたい。

性行為の考察を通じて光を投じるべき仮説とは身体が不可避的に抱える汚れをむしろ人が積的に受け入れる行為であるのではないかということだ。ここを議論して初めてバタイユの語るエロティシズム論を現実に投影することができるだろう。

とはいえ、単なるロマン主義的論述にならないためにも、大真面目に具体的な性行為を列挙していき、それぞれの行為にまつわる身体的特徴を考察すべきだ。

 性行為において刺激される身体部位は存外に多いうえ、何が性感帯になりうるかは個々人の状態や性質によって異なるため、科学的な見地からあらゆる部位を事細かに列挙し精査するのは無意味であるように思える。

 しかし、ほとんどの人において共通するのはその刺激を与え合う主たる部位が粘膜、すなわち口唇、性器、肛門に集中していることであり、そこから追及すべき点は粘膜というのが病原体から身体を守る機能を含んでいることから翻って身体のあらゆる部位の中でも汚れやすいというところは指摘しなければならない。

 例えば、口唇においては、接吻から連想させられる唇の接触だけでなく、歯の裏側の歯槽堤から硬口蓋にかけても快感を受けやすい。この快感を互いに与え合う行為がディープキスであるが、これを通じて互いの舌で刺激を与え合うだけでなく、唾液の交換をも行うのである。

 また性器、肛門においては性感を受ける身体部位である以前に、日常においては排泄器官としての役割の方が主である。しかし、性行為においては排泄器官であるという観念は取り払われ、むしろ性器や肛門が興奮を喚起し、性行為において目標となる。

 フロイトは性感となる身体部位への自覚を発達段階と比較しながら、肛門領域の性源泉について以下のように述べている。


子供が肛門領域における性源上の刺激過敏性をうまく使用しているらしいことは、彼らが、たまった便で激しい筋収縮運動を生じさせ、排便のさい、肛門の粘膜に強い刺激を与えるようになるまで、排便が押しとどめられているという事実からそれと知られる。そのさいにはきっと、苦痛とともに官能的快楽をも生じさせているはずである。

フロイト, 1901-1906, P238

このようにフロイトは排泄器官としての腸および肛門への刺激をそのまま性的な快楽に転用させていることが小児期の子どもに見られることを語っている。ともすれば、性行為がもたらす状況によって人は性器や肛門の持つ排泄器官としての役割を一時的に忘却しているのではなく、暗黙のうちにその器官が引き受ける汚穢を理解しながらも受容していることがうかがえる。これは食物を摂取するという役割も担う口唇であっても例外ではないだろう。

 したがって、性行為とは生理的活動において不可避的に汚れうる身体を積極的に受容する、あるいは許す行為であるといえる。もちろん、生物学的には性行為とは互いの遺伝情報を交換することによって、環境に適合しながらその種を次世代へ保存していく一連の行為に他ならないのだが、しかし、人間にとってはわざわざ避妊のための技術を生み出してきたことや、生殖の適齢期を過ぎたあとにも性行為が起こりうることなど、むしろ生殖としての役割以外の領域の方が重要性を帯びていることは自明だ。

この汚穢を互いに受け入れるとは単に汚損愛好症のような倒錯のことを指すのではない。

人は社会を生きる中で何らかの服を纏っている。服を着ることそれ自体が何らかの審美性をその身に備えるということでもあるのだが、制服などをみればわかる通り、もう一つの役割としてはその人が何者であるかという社会に対する記号性を纏うことでもある。そうすることで社会と連帯している一員であると表明することができるのである。

しかし性行為をするうえで服というある種の社会的表明や人工物、記号を脱ぎ去って裸になるという、限られた空間の中において二人は社会的秩序から脱出することができるのであり、そして社会的な装いにおいては本来秘匿されるべき、いやむしろ文明的と見なされるあらゆる行いによってどれだけ秘匿されていたとしても、裸になったそのすぐ後には、今なお力動する身体によって生み出されてしまう汚れや垢、あるいは汗の中に、理性のなかで名づけられる身体とは全く別の生命の自律性によって力動する身体を見るのである。

つまるところ性行為とは人の手によって有耶無耶にされてきた他者の姿を互いに触れ合うことで発見する行為であり、正常な性行為を通じて生まれるのは互いの性的快感だけではなく、これまで接してきたはずの他者を知る驚き、感興なのである。


 本論において主要な目的とは本来獣のように低次なものとされてきた性活動を人間的なものに押し上げようとすることだが、この節のひとまとめとして、人間の性行為が他の動物のそれと大きく異なる点を主張するとすれば、ここだ。なぜなら動物には人間のように社会的な要請から隠すべき汚れなど存在しないし、したがって性行為の中で他者を発見する喜びも知らないのだから。




第2章

バタイユの語る死、汚穢、性的恍惚を通じて

ここでは第1章で取り扱った性欲と性行為における見解を手掛かりにしながら、バタイユの思想に通底するエロティシズムに対する知見への考察を深め、第1章で培った議論をより深めていくものとする。

第1節 バタイユにおける死とエロティシズム

 第1章の第2節において私は人間の性行為が生殖を目的とした行為ではなく、人間が生まれながらにして孤独であるという不足を充足するために人間固有な行いであり、手段であると説いたが、バタイユは『エロスの涙』の冒頭において、性行為が人間に固有であるという点に対し、「われわれがすでに見たとおり、どうやら毛で覆われていたらしいネアンデルタール人は、死の認識を持っていた。」(バタイユ, 1961=2001, p35)として、また異なる視座を提供してくれる。つまり、人間の性行為が動物の性行為と同様でないのは、わたしはいずれ死ぬという自覚を持っているか否かである。

 推論はまさしく人間の理性の一つの極致であるが、その理性の賜物によって自分に必ず起こりうる不幸を否応なく自覚させられる。

 おそらく動物であれば、こうはならないだろう。例えばウサギが狼に襲われたとして、その追いかけられている瞬間は死の予感を感じたとしても、うまく逃げ延びて恐怖が去ってしまえば何もないような顔をしているのは、推論する理性が無いからである。そのときに感じる恐怖は単なる外界の危険に対する単なる反応であり、その先にも同様の危険が起こりうるという不安は、未来を予見することができないために、持続しないどころか起こりえない。

 つまり、バタイユが死の認識を人間固有のものと結びつけられるのはこのためである。

 そして、死が起こりうる驚愕とエロティシズムにおける激情を結びつけバタイユはこうも語っている。


なるほど、死あるいは死の意識とエロティシズムとの一体性を明瞭に判然と見て取ることは難しい。激発的な欲望は、その原則において、生命に対置されることはできない。生命は、それの結果なのだ。エロティックな瞬間はこの生命の絶頂でさえある、生命の最大の力や最大の強烈さは、双方の生き物が引き寄せ合い、交わり合い、不滅にしあう瞬間に姿を現すのだ。問題なのは、生命であり、それを再生産することなのであるが、生命は、自らを再生産しつつ、溢れ出るのである。それは、溢れ出ながら極度の熱狂に到達するのだ。これらの混ぜ合わされた体は、身をよじり気を失いながら、悦楽の過剰の中へと沈み込んで、死の反対側へと赴くのである。やがて、後になって、死がそれらの体を、腐敗の静寂へと捧げることになるのだが……。

バタイユ,1961=2001, p37

ここにはオルガスムのもたらす忘我や、第1章にて重要なテーマになった身体と精神両者の合一といったテーマに対する重要な示唆が含まれているため、順を追って考察していく。

まず、冒頭の箇所の生命、欲望、原則という三つの単語の語義についてであるが、奇しくも第1章の第1節で述べた性欲と性的快楽の関係を用いて解釈することができる。

 ここでいう欲望とはまさに人間の本質である理性によって発生した他者の不足を解消したいという欲求であり、欲望生命とはエロティシズムによってもたらされた性的快感である。そして「生命に対置されることはできない。」、また、「生命は、それの結果なのだ。」という言葉を、すなわち欲望(性欲)の対象に生命(性的快感)があるのではなく、欲望したことの結果なのだと解釈してみれば、欲望の対象とはまさに「双方の生き物が引き寄せ合い、交わり合い、不滅にしあう瞬間」なのであるが、これこそバタイユの語るエロティシズムの語義を為している。

つまり、二者が性行為を通じて絶頂に達したとき、その存在の理性を失わせるのであるが、そのために、理性によってもたらされた死への予見をも失わせるのである。そして死への予見が推論によってなされたものであるならば、推論のもととなる過去や予想立てされる未来といった時間的概念をも同時に失わせるのである。この段落の最後において、こうした両者もやがて死に至ることを記述したことは、逆説的に、エロティシズムを通じた瞬間においては、これら二者は死の予見から逃れられたことを意味する。


しかし、バタイユの著作『エロティシズム』の邦訳も努めた澁澤竜彦は彼自身の著作において一旦の見解とはまた異なるエロスと死の関係性を語っている。


わたしは、ここではっきり申しますが、オルガスムの美学の最高の理想は、情死だろうと思います。性的なエネルギーのすべてを、ただ一回の成功で完全に放出してしまえば、あとは、死があるばかりです。それは、一夫一婦制を賛美する一種の絶対的な人口楽園、性的恍惚の極限としての一種のユートピアの実現であって、エロスと死の本能とが、ここで見事に溶け合っているのです。なぜ情死が一夫一婦制の肯定になるかといえば、恋愛というものを一回かぎりの情熱として、死にまで高めようという欲求があるからである。死んでしまえば、もう絶対に相手を裏切ることはできない。死は最高の保証であり、献身であります。

澁澤, 1993, p82



さらに澁澤は「この解放感は、肉体を酷使したあげくの無力感ともつうじており、古来、ヨーロッパではオルガスムを「小さな死」と呼びならわしてきました。(攻略)」(澁澤 p80)として、オルガスムにおける忘我が死の感覚と相通じるものと指摘しているが、ここで重要視されるべきは、先述したようにオルガスムによる理性の消失を通じて死を乗り越えるのではなく、オルガスムがそのまま死の体験と同様であるという点で、筆者の考察とは対置されるところだ。もちろん、この澁澤の知見はバタイユの著作に対する言及ではないから当然ではあるのだが、しかし、澁澤の知見をそのまま上記の引用にあてがうと「死の反対側」とは何であるかの説明はつかない。オルガスムが死の体験と等価であるという知見を借りつつ、話を進めていこう。


差し当たって、バタイユは『エロティシズムの歴史 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』の中でも、エロティシズムについて以下のようにも語っているため、こちらも検討してみたい。


欲望はつねに、ひとつの動的な対象と、別の動かぬ死んだ対象とを求めている。そしてエロティシズムを特徴づけるのは、生きた動くものではなく、死んだ不動のものである。後者だけが通常の世界から引き離されている。この切り離された固定化された様態こそ、我々が生きた動くものを導いていきたいと思う終着点である。平常の意識的な連鎖を断ち切り、引き離されたものを見出すことが重要なのである。この引き離されたものは、物としてあるいは融合としてしか存在しない。

バタイユ, 1951=2011, p197


 なるほど、エロティシズムにおいて欲望されるのはやはり死の体験であろう。しかし、オルガスムはやはり死の類似であって死そのものではない点は強調すべきである。この後すぐに「つまり、現実には、静止したものは一般に持続を意味し、運動は瞬間における生を意味する。」(バタイユ, 1951=2011, p197)と説明される通り、死というものはその意識においては固定化され永遠なものであるが、それは対局に位置する瞬間的な運動の極致に位置するという全く対立する二つの要素の統合によってもたらされる。

バタイユはそれぞれ静止をアポロンの美(神としての永遠の生命という静止のメタファー)とディオニソスの狂乱の宴(宴の錯乱状態における瞬間的な生、忘我のメタファー)に例えながら以下のように続ける。


バッカスの巫女の狂奔にはまず、瞬間に限定された生という意味があるが、それに続く段階で意識にとっての対象が定立されたときに、自分をかき乱すこの対象に魅惑され意識の働きにも、瞬間に限定された生という同じ価値がある。したがって、情念の捕捉しがたい奔出は、この対象に対し、無限定の持続の意味を持つ。中心的主題は、有用な物の世界を荒らし回る巫女と、荒廃から守られている物との対比のなかに与えられる。

バタイユ, 1951=2011,pp197-198


 先ほどオルガスムが死の類似であるということを述べたが、恐らくこの運動と静止の弁証法的統合は、オルガスムが不完全な静止(死)でないのと同様に、バッカスの巫女の我を忘れて狂乱する姿(生の運動による忘我)に例えられる運動も、その実、狂乱のなかで完全に我を忘れられるわけではないのである。言い換えれば、どんなオルガスムに浸ろうとも、人には意識の残滓があり、その残滓によって対象を捉えたとき、無限にほとんど接近するほどの対象が突如目の前に広がるのである。それは言語によって分断される以前の世界とほとんど近しく、しかし、まったく同一ではない。それでも理性によって世界を秩序立ててしまった人間にとって、この生と静止の統合は十分すぎるほど鮮烈なのである。

 性的恍惚によってもたらされる忘我の感覚は、むしろ理性によってわたしという枠組みがあり、だからこそ、そこからの脱出を惹起することができる。そこへ向かわせる力動ともいえるエロティシズムはやはり動物における発情といった諸々の性活動とは一線を画すものと結論付けられる。




第2節 足の親指、汚穢、泥、不定形

 第1章第1節において性欲の想定する他者とは娼婦のような交換可能な存在ではなく欲望する主体にとって個別性を帯びた存在だと説いた。しかし、その時点では個別性を対象にもたらす諸条件に対する明確な答えを持ち合わせていなかったのである。

 また第1章第2節における汚穢に関する十分な視座をバタイユは持ち合わせており、ここについても十分に語ることのできる見立てを立てているのだが、その前に第1章第2節での議論を軽く振り返ろう。

 つまるところ、積極的に互いの汚穢を受け入れるところに人間の性行為における特異性がある。普段は服や装いという人工物によって秘匿されており、悪しきもの、不快な物として扱われるところの汚穢が、性行為が行われるや否や、他者の姿を互いに触れ合うことで発見される対象へと転じ、正常な性行為を通じて生まれるのは互いの性的快感だけではなく、これまで接してきたはずの他者を知る驚き、感興によって精神的な喜びをもたらすというのが趣旨であった。

 そして、バタイユの語る不定形の概念、そして垢や臭気といった唾棄されるべき対象への視座はこの議論をさらに高次に押し上げてくれる可能性を持ち、それだけ考察する価値があることはここで認めておかねばならない。

 ここでは主にバタイユが中心となって編纂されたグラビア雑誌『ドキュマン』の「不定形の」、「足の親指」、に着目して考察を行う。特に「不定形の」は非常に短い文でありながら、『ドキュマン』全体を通じて、イデア論的形態に対する激烈な反駁を貫くのであるのは重要な点である。

江澤はイデアリスムに対するバタイユの反論を以下のように説明している。


プラトンが言及している〈毛髪〉は、線形をしているが、しかし互いに縺れ、絡まり合い、フケを散りばめ、複雑な不定形を編み上げながら、成長し、身体から排出されていく。そして汚物や、垢や、唾は、身体から排出される余剰であり、低劣な物質、自然における泥のような物質である。ここにある垢と、あそこにある垢は、同じように垢だが、異なる形をしている。あの唾とこの唾は、やはり同じように唾だが同じ形をしていない。つまりそれらは、決してイデアに与ることのない、非形相的な物質である。しかし、垢は、唾は、決して無形ではない。そして、身体として生きるわれわれの感覚にとって、これらの呪われた物質は明らかに存在している。形相に基づく観念論的思想がいくら否認しようとも、この物質的次元は、身体が浸る感性的現実として絶えず潜在している。

江澤, 2005, pp42-43


前節において予感させられてきたことであるが、バタイユはどうやら理性や観念を脱することで感性的領域に立ち戻ろうとしていたことが確からしいのである。

 この知見を基に「不定形の」を読み解いてみる。たとえば、「すべての哲学という者は、これ以外の目的を持ってはいない。つまり、存在するものにフロックコートを、数学的なフロックコートを与えることなのだ。」(バタイユ, 1929, p144)とは、イデアリスムにおいてそこにエイドスを投じることであるともいえるし、反対にその後続く記述である「それに対して、世界は何物にも似ていず不定形にほかならない、と断言することは、世界はなにか蜘蛛や唾のようなものだ、と言うことになるのである。」(バタイユ, 1929)というのは、ふとイデアによって規範化され、その有用性の無さに破棄された諸々の諸事情、それこそ感性的世界に目を向ければ、規範の埒外にこそ、混沌としたイデアとは全くことなる悍しいほどに激烈な世界が広がっているのであるともいえる。しかし、ここで興味深いのは不定形が言葉として形相を与えられない低次の存在にもかかわらず、蜘蛛や唾という言葉によって語られなければならないという矛盾である。これは前節のオルガスムによってでさえも、人間は完全に死すことはできず、また完全に生の瞬間の極致としての忘我にたどり着くこともできないという弁証法的超克でも乗り越えられない人間の不完全さ —そしてこの相反する二項の行き来こそが人間独自の力動を裏付けるものであるが— を喚起させるのは偶然ではないだろう。


さて、少し話が逸れたが、この「不定形の」における示唆から、人間の性欲において志向され、また性行為において感興されるところの個別性について光を投じることができる。

 「足の親指」においてはJ=A・ボワッファールにおいて撮影されたまさしく題目の通り、足の親指が映し出されるのであるが、片や30代の男性の足の親指が映し出されており、片や20代の女性の足の親指が映し出されている。しかし、モンタージュによって切り取られた足の親指はもはや、うら若い女性という形相も、或いは健康な男性の形相も(尤もここで想定される被写体の全容は図版に添えられるそれぞれの言葉から想像するしかないのだが。)思い起こさせはしない。

 ここにおいて足の親指という身体部位をバタイユはこう語る。


身体の内部では、同じ量の血液は上から下へそして下から上へと流れているのにもかかわらず、支持されるのは上昇するものであり、人間の生は誤って上昇と見なされている。世界を地下の地獄と完璧に純粋な展開に分ける見解は消し去りがたく、光と天上界が善の原理である。つまり、足を泥に埋め、頭をほとんど光に浸した人間は、自分たちを純粋な空間へ永遠に高め上げる潮を執拗に想像しているのだ。汚穢から理想へ、そして理想から汚穢への往復運動が問題となるのを見ると、激怒してしますのが人間の生であり、その激怒が、足のような低劣な器官にたやすく向けられるのである。

バタイユ, 1929, p108


 すなわち人間は理性(頭)によってその道徳や善を育むことができるのにも関わらず、常に土や泥によってその身体を貶められており、かつそこから逃れることができないという宿命を背負っている。しかし、理性という善によってわれわれは生きていると思い込みたいがために、足は恥の対象となり、秘匿される。そして足への眼差しはたやすく禁止されるのである。ここには足の親指に限らず、性器や肛門にも同様のことが言える。性器は尿に否応なく汚辱され、肛門はそれこそ泥と同価値の糞便に晒される。これら足の親指も、性器や肛門もただ不潔であるというより、むしろそれが理性の独善が生み出した人間の形相と対局に位置されるからこそ秘匿されるのである。

しかし、理性主義によって秘匿されながらも、そしてそれほどまでに醜い対象であっても人は激烈に魅了されうることをバタイユは示唆している。


 足の親指に魅惑的な要素があるとすれば、気高い熱望、たとえばほとんどの場合に優美で正確な形態をむしろ好ませるような、まったく消し難い趣味を満足させるのが重要でないことは明らかである。逆に、たとえばピリャメディアーナ伯爵の場合を取り上げれば、彼が女王の足に觸れることで得た喜びは、足の低劣さ、具體的にはもっとも奇形的な足が表す醜さと悪臭に直接的に起因していたと斷言することができる。女王とは、先験的にいかなるものよりも理想的で至純の存在であるため、粗暴な兵隊の湯気を放つ足と大差のない彼女の部分に觸れることは胸も張り裂けんばかりに人間的な行為であった。まさにそれは、光や理想的美が引き起こす魅惑とは根本的に対立する魅惑によって魅了されることである。魅惑の二つの次元はしばしば混同されているが、それは人々が絶えず一方から他方へと揺れ動いているからであり、この往復反応から考えて、どちらの側で終わろうとも魅惑は、運動が急激であればあるほど強烈なものとなるからである。

バタイユ, 1929, p114


 ここにも第1章第1節における性欲の対象となる個別性を備えた他者についての議論を深めるべき諸要素が露わになっている。

 一見すれば、理想の極にいるような崇高な存在こそが、固有の存在であるように思われるかもしれない。しかし、人が人というイデアの似姿であると見れば、ある許容できる範囲の審美性や理想的形態においては交換可能なのである。なぜなら、イデアそのものではないから、何かしらの形容を伴って表現できるほどにはその形態は類似していることを意味する。   

しかし、不定形な、怪物的な形態はそうではない。足元に広がった汚泥が、それがどんな形か言葉で形容できなくても、何らかの形を持っていることだけはわかる。バタイユのいう理想美と低次の混沌が示す存在の魅惑を往来することとは、その動機付けが審美性にあったとしても、その対象は否応なく不定形な形態を否応なく含んでおり、誘惑が激しければ激しいほど、いびつな形や汚れへの眼差しをも深くならざるを得ないのである。そうして対象の中へ個別性を育んでいく。わたしにとってのあなたは替えが利かないものとなっていく。

バタイユの「不定形の」、そして「足の親指」がこの議論にもたらす示唆とは、性行為における発見によって他者の感性的な存在を認めるということであり、理想主義からくる秘匿にもかかわらず、しかし、それをも乗り越え暴かれる人間の低次の部分への魅惑とそこから生まれ出る他者の激烈な存在の肯定という結果なのである。



第3章 エロティシズムについて

第1節 エロティシズムの再考


さて、ここではエロティシズムの在りように光を投じていくために、これまで論じてきた性にまつわる諸問題を改めてまとめることにする。

 第一に性欲とは、人間の言語的分節によって、広義での理性によって生み出された孤独、つまり他者の不足を解消したいという欲望であった。そして、マスターベーション娼婦性愛のようなただ性的快楽を目的とした性活動と区別するために、性欲とは身体と精神の合一を手段とし且つその他者には個別性を要すると結論付けた。

 第二にその十全な性欲のもとに行われる性行為とはなんであるか論じた。性行為とは生まれるのは互いの性的快感だけではなく、不可避的に接触する汚れうる性域に対し、むしろ積極的に互いの汚穢を受け入れることで、人間特有の社会的装いから離脱し、他者を改めて知る驚き、つまり感興によって精神的な喜びをもたらす行為だと論じた。


 そして、性欲にも性行為にも他者の存在が関わるのであるが、その性的力動と他者の関係に対する議論をバタイユのエロティシズム論の知見によって幾分か深めることができたといえよう。

 バタイユの示唆する死とエロティシズムの観念は性的快感を互いに与えあう絶頂のなかで、忘我と死の極の直前まで人を追いやり、しかし完璧な生の瞬間の運動にも、死の静止の永続にも至らないがために、意識の残滓が人に宿り、理性の埒外にあった存在の無限の広がりをもたらすのであり、それは理性から完璧には逃れられないという人間特有の性質によってもたらされるという一つの結論に至った。

 また性行為において何度も特筆した汚穢を受け入れるという点についても、バタイユの『ドキュマン』における視座から押し広げることができたといってよい。すなわち、汚穢とは、単にそれが不潔であるから忌避されるだけでなく、それが人間の善たる理性や理想主義と相反するために秘匿されるのだが、その秘匿の暴きへの欲望とその結果としての感興こそが、対象の理想的形態をも肯定することにつながるのだと議論を推し進めることができた。


 エロティシズムとは、人間固有の理性とその下で蠢く身体を、言語的分節という生涯付きまとう人間の宿命によって死ぬまで孤独である自己と他者を、そして生のもたらす瞬間の運動と、永遠の静止という死を、すなわち相反する二項を性の媒介によって統合する激烈な衝撃なのである。


第2節 エロティシズムは新たな道徳か

 では、エロティシズムは新たな道徳や善として賛美すべきなのか?答えは否である。

これまで語ってきたエロティシズムの肯定的側面はエロティシズムが奇跡的に発揮された結果のみである。

 汚穢を受け入れることは必然的に互いの身体に対し加害性を持つ。相手の秘匿を暴くことは社会的な装いとして個人を保ってきた領域への侵犯である。わたしが個別性を認めた他者がわたしに対して個別性を認めているとは限らない。この両者の均衡が崩れたとき、どちらかが、相手を手段として用いるか、そうでなければ支配と隷属である。

 エロティシズムのもたらす、あまりにも激烈で過剰な他者への接近はそれ自体暴力の可能性を潜在的に含む。だからこそ、エロティシズムが十全に発揮されることはある種の例外的事態であり奇跡なのである。『エロスの涙』において死とエロスを並置してバタイユはこうも語っている。


 両方の場合とも、《激しさ》が異様にわれわれから溢れ出る。どの場合も、その秩序に対して異様なのであり、この激しさは、どの場合も、その秩序に対立するのである。なるほど、死の中にある無作法は、性活動が持っている卑猥さとは異なっている。死は涙に結びついているが、性欲は時として笑いに結びついているのだ。(中略)笑いの対象と涙の対象とは、つねに、物事の規則的な流れ、習慣的な流れを中断するなんらかの種類の激しさに関係するのである。

バタイユ, 1961 , p36


ゆえにエロティシズムは排斥される悪徳でも、あるいは礼賛される善性でもない。

 エロティシズムがこれまでの道徳に見られる禁止や抑制から見られるように悪徳であるのか、それとも、性行為や性的快感を与え合うことによる自己と他者の合一によって露わにされる人間固有の諸要素によって新たな道徳なりえるかという問いに対して、ここに結論づけるならば、エロティシズムとは二者の偶然的な出会いの中で、日常に対置された突如襲い来る大いなる力動、ただそれだけなのである。
 まさに自然の人間に対する態度のように。




おわりに

 本論は、バタイユの《ドキュマン》の「足の親指」のなかで語られる衝撃的な視点から出発している。本来低次なものとして扱われる汚れに最も近しい身体部位が、そして誰もが汚れを抱えうる足の親指が、反転してまさに強烈な魅惑の対象へと転じるという驚嘆から出発している。

 ここから転じて、バタイユのエロティシズムを語るにおいて、その意義をやはり現実に結びつけるにあたり、性欲と性行為の地位を再考することを目標とするに至ったのである。

 本論を通じて、バタイユのエロティシズムに対する他者論とも呼べるような強烈な知見を議論することは、そしてバタイユを通じて性を論じることは、むしろジェンダー論とはまた異なった形で私たちは誰しも性器から生まれてくるように本来必然的に人間に備わっているところの性にまつわる観念に風穴を開けてくれるだろうという点にこのテーマの独自性を期待していた。

 第1章、第2章、第3章を通じて表れてきたのは、バタイユにおける弁証法的統合の世界観である。善悪の二項対立を乗り越えるこの所作によってエロティシズムがもはや人間の規範によって捉えられるものではないとする結論は、性にまつわる妥当性を個々人に委ねるという意味でその価値を従来の性が後ろめたいものであるという状況から救い出すというおおよその目標に見合うだけの結論を導き出せたともいえるのだが、バタイユの論に幾分か誘導されてしまったのではないかという反省もある。この主たる原因は先行研究の参照不足である。

 また、性にまつわる暴力性、特に性行為が持つ現実的な暴力性に対して十分に客観的な検討ができなかった点は反省すべきであるが、しかし同性愛については、あえて言及を避けている。バタイユで問題とされるのは他者の表象の分野であり、同性愛などの複雑な社会的様態については今回に関しては語るべき領域ではないと断じていたからだ。

 バタイユ自身がテーマとする領域は民俗学、哲学、文学など幅広く、またバタイユの持つエロティシズムにおける観念を網羅したとは全くもって言い難い。本論は性愛における二者の関係性に注目したわけであるが、今回はあまり深く論じなかったバタイユにも関係する性倒錯や労働、遊びといったテーマにおいては、本論よりも幾分か現実に敷衍できる可能性が残されている。


 最後に己の努力不足によって多大な心配をおかけした指導教官のH先生には、心からのお詫びを申しあげ、本論を締めさせていただく。




参考文献

ジェラール・ボネ著, 西尾彰泰/守谷てるみ訳『性倒錯―様々な性のかたち』, 文庫クセジュ, 2011

サイモン・ブラックバーン著, 屋代通子訳『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』, 築地書館,2011

フロイト, 1910, 「性愛生活が多くの人によって貶められることについて—「愛情生活の心理学」への寄与」, 中山元訳 『フロイト、性と愛について語る』, 光文社

ジョルジュ・バタイユ, 1929-1930, 『ドキュマン』, 江澤健一郎訳, 2020, 河出文庫

江澤健一郎著, 『ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学』, 2009, 水声社

フロイト, 『フロイト全集』, 1912, 「性理論のための三篇」, 渡邉俊之訳, 2009, 岩波書店

ホッブズ, 『リヴァイアサン』1651, 角田安正訳,2014, 光文社

ジョルジュ・バタイユ, 『エロスの涙』, 1961, 森本和夫訳, 2001, ちくま学芸文庫

ジョルジュ・バタイユ, 『エロティシズムの歴史 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻』, 1951, 湯浅博雄・中地義和訳, 2011, ちくま学芸文庫

芥川龍之介, 『或阿呆の一生・侏儒の言葉』, 1969,角川文庫

澁澤龍彦, 『澁澤龍彦全集6』,「快楽主義の哲学」,1993 ,河出書房新社

酒井健, 『バタイユ』, 2009, 青土社


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