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ヴィルム・ホーゼンフェルト

今では信じられないことですが、かつてヒトラーは救世主と崇められ、慈愛に満ちた心優しい人物であると民衆に愛されていました。

第二次世界大戦で兵士たちが書いた日記は貴重な歴史的文献ですが、その中にも政府に洗脳された若い兵士たちのヒトラーへの惜しみない賛辞が散見するのは悲しいことです。

将校ヴィルム・ホーゼンフェルトもまた、ナチス特別部隊がワルシャワでユダヤ人を集めて殺害するのを目撃してショックを受け、「ケダモノたちがこんな野蛮なことをしていることをヒトラーが知ったらショックを受けるに違いない」と日記に書いています。

しかし、次第に彼はヒトラーに疑念を抱き始め、やがて自分たちが騙されていることを確信します。

日記には「この恐ろしいユダヤ人大量殺戮は我々が犯した消えない恥、消えない呪いだ。私たち全員が共犯者だ。街を歩くことすら恥ずかしい」と書き残しています。

ホーゼンフェルトはユダヤ人迫害に対する嫌悪感を言葉で表現するだけでなく、やがて積極的にユダヤ人を助けるようになります。

ユダヤ人男性レオン・ヴァルムはワルシャワから絶滅収容所トレブリンカへの強制移送中、列車から脱出してワルシャワに戻るとホーゼンフェルトはヴァルムのために偽の書類を用意し、匿いました。

また、ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』をご覧になった方は、ユダヤ人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンを救ったドイツ人将校を覚えておられると思いますが、それがこの将校ホーゼンフェルトです。

シュピルマンは家族全員が殺害された後、ゲットーを出て、ポーランド人の友人たちの助けを借りて生き延びていましたが、1944年夏のワルシャワ蜂起の後、たった一人で破壊された街の廃墟に身を隠していました。ホーゼンフェルトが屋根裏部屋に隠れているシュピルマンを見つけたのが1944年11月中旬で、解放までの数ヶ月間、シュピルマンを匿ったのです。

1945年1月、ホーゼンフェルトはソ連軍に捕らえられ、5年後の1950年5月7日、ソ連軍事法廷は彼に25年の懲役を宣告しました。

ホーゼンフェルトが救ったレオン・ヴァルムは彼がソ連の捕虜収容所にいることを知ってホーゼンフェルトの妻を尋ね、何とかして彼を救おうと尽力しましたが叶わず、拷問によって精神に異常をきたしたホーゼンフェルトは1952年に収容所で亡くなりました。

シュピルマンもまたヤド・ヴァシェム(イスラエルにあるホロコースト犠牲者を追悼するための国立記念館)にホーゼンフェルトへの称号を申請し、2009年、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに贈りました。

几帳面なホーゼンフェルトが日記を定期的に自宅に送っていたため、全て大切に保管されていたことは奇跡です。残された妻と5人の子供たちにとっての戦後は決して楽ではなかったでしょう。しかし、日記からも窺い知ることが出来るホーゼンフェルトの良心が彼らを支えてくれたのではと想像します。

ポーランド人の子供を抱くホーゼンフェルト
ユダヤ人男性と会話するホーゼンフェルト。当時、「劣等人種」であるスラブ民族、ユダヤ人と接触することは禁じられていたのにもかかわらず、ポーランド人もユダヤ人も親切なホーゼンフェルトを家に招待し、歓待した

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