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ヴァンゼー会議

 ベルリン南西部に位置するヴァンゼー地区は、湖に面して瀟洒な屋敷が建ち並ぶ高級住宅地です。中でもひときわ目を引く優雅な白亜の豪邸は、製薬会社を経営するエルンスト・マルリエが20世紀初めに建てたものでしたが、後にSS(ナチス親衛隊)とその家族のための保養所となり、現在は博物館となって連日ベルリン市民、教師に引率された生徒たち、観光客でにぎわっています。この豊かな緑に囲まれた湖畔の美しい邸宅で、人類史上例を見ない国家的な犯罪、ユダヤ人絶滅政策に関する秘密会議が開かれていたことに驚きます。

 今年はそのヴァンゼー会議80周年です。今回はホロコーストを語る上で外すことの出来ないこの会議について説明させてください。

 時折ナチスによるユダヤ人殺戮はヴァンゼー会議で決定したとの誤解があるようですが、実際はそれ以前から始まっています。ヒトラーが政権を掌握してからはユダヤ人に対する差別、追放、迫害は日常的に行われるようになり、ドイツ軍がポーランド、ソ連に侵攻すると、東方におけるユダヤ人弾圧はさらに強化されていきました。ヒトラーは東方にドイツ帝国を拡大し、ユダヤ人を根絶し、スラブ人を奴隷化しようと考えていました。そうして生まれたのが殺人部隊、アインザッツグルッペです。これは占領下のユダヤ人、パルチザン、社会主義者などの「敵性分子」を射殺することを任務とした3000人ほどの特別部隊です。アインザッツグルッペは占領下のポーランドにおいては約7000人のユダヤ人を含む6万人以上の知識人、貴族、聖職者、教師を殺害しましたが、それは指導層がポーランドの民族意識の中核となっており、東欧ゲルマン化を邪魔していると考えたからです。私は東部戦線のポーランドの小さな村でアインザッツグルッペがユダヤ人住民たちを殺害するのを目撃した元ドイツ兵にインタビューをしたことがあります。村の女性、子供、高齢者を含めた十数人を壁の前に立たせて一挙に機関銃で撃つ場面を今でも夢に見て辛いと話していました。また、私の親類の男性は1941年にラトビアのリガに駐屯していたのですが、回顧録にアインザッツグルッペが出てきます。それはアインザッツグルッペの監視のもと、ゲットーから泣きながら長い列を作って歩くユダヤ人たちの様子を綴ったものです。彼が同僚に「なぜユダヤ人たちは泣いているの?」と尋ねると「これから森に連れて行かれてみんな射殺されるんだよ」と答えたと言うのです。「赤ん坊を抱いた女性、小さな子供たち、杖をついて歩く老人たちもたくさんいた。みんな大きな声で泣き叫んでいる。これから起こることを知っているのだ。気の毒で観ていられなかった」。これは三日間で25,000人のユダヤ人がアインザッツグルッペによって射殺された有名な「ルンブラの森大虐殺」 です。私の親類の男性は、その森に向かうユダヤ人の行進を実際に目撃していたのです。

 こうしたアインザッツグルッペによる残虐行為を目の当たりにし、ショックを受けてナチスの抵抗運動家となったドイツ人もいます。白バラグループのハンス・ショルたち大学生、ヒトラー暗殺未遂事件の首謀者クラウス・シュタウフェンベルク、映画『戦場のピアニスト』で有名になった主人公のピアニストを救った将校ヴィルム・ホーゼンフェルト、そして神学者のディートリヒ・ボンヘッファーもアインザッツグルッペの犯行現場の写真を見て、ヒトラー暗殺計画を決意したと言われています。

 しかし、アインザッツグルッペの隊員の中にも女子供を射殺することが苦痛だと訴える者もいたようです。そこで登場したのが毒ガストラックです。これはトラックの密閉された荷台にユダヤ人を押し込め、そこにエンジンをかけて排気ガスを送り込む移動式ガス室でした。この殺害法はすでにドイツ人の心身障がい者に対しても行われていたため、一度で大人数を殺害できる「効率の良さ」は立証済みでしたし、「良心的殺害法」は隊員たちの精神的な負担を軽減しました。アインザッツグルッペによって殺害された犠牲者は、100万人以上と言われています。

 無法地帯の東欧でユダヤ人殺害を行っていたアインザッツグルッペですが、同じ残虐行為をドイツ国内のドイツ人たちの目の前で行うことは批判を恐れてしませんでした。ですからナチス政府は1941年11月からドイツ国内に住むユダヤ人を国外の強制収容所やゲットーに送り込んだのです。 

 1942年1月20日、ヴァンゼー会議が開かれます。指揮を執ったのは、ゲシュタポ長官でSS諜報部長官のラインハルト・ハイドリヒ、若干37歳のファナティックな反ユダヤ主義者でした。出席者はゲシュタポのユダヤ人移送局長官アドルフ・アイヒマン、人民法廷長官ローラント・フライスラー、ポーランド総督府次官ヨーゼフ・ビューラーなど15名で、ユダヤ人絶滅計画を遂行するために必要な省庁の上層幹部たちでした。

 この会議の目的は、全ヨーロッパのユダヤ人約1100万人根絶を目指す「ユダヤ人問題の最終的解決」政策を成功させるため、出席者に協力を仰ぐことでした。広大なドイツ占領地域でそれを実行するにはアインザッツグルッペだけでは追いつきません。各省庁はユダヤ人問題を優先順位のトップにし、絶滅作戦に取り組むよう奮起を促したのです。

 他に議題としてあがっていたのは、「どこまでをユダヤ人とみなすか」でした。両親がユダヤ人であれば当然ユダヤ人でしたが、祖父母の一人がユダヤ人だったら?二人がユダヤ人だったら? 「面倒だからみんな殺してしまえ」と言う者もあれば「半分までにしよう」という者もあり、結局結論は出なかったそうです。

 さて、この会議の15ページにわたる議事録は隠語のように言葉を微妙に変えているため、歴史的な背景を知らないと全く意味がわかりません。例えば「ユダヤ人問題の最終的解決」→ユダヤ人絶滅計画、「帝国からのユダヤ人の移住」→帝国からのユダヤ人の追放、「ユダヤ人は移住する代わりに、総統の事前承認を得れば東方への避難が可能となる」→ユダヤ人の東方への強制移送を行う、「健康なユダヤ人は道路建設に従事することになるが、その大部分は間違いなく自然淘汰される」→健康なユダヤ人を死ぬまで道路建設に従事させる、「労働不能となった者は適切な処置を受ける」→労働不能となった者は殺害する、といった具合です。この議事録にはガス、ガス室、殺害、強制収容所、絶滅収容所などの言葉は一切使われていません。しかし、ナチス高官たちはこれが何を意味するのかを知っていました。こういった意味不明な隠語を用いたのは、国民にユダヤ人絶滅政策について知られることを恐れたためです。国民は突然町から姿を消していくユダヤ人のことで、政府に懐疑的になっていましたから、ナチス政府は慎重にならざるを得ませんでした。この議事録からどのような具体的な話し合いがあったのかを読み取ることは難しく、現在も歴史家の間で議論されています。例えば具体的な殺害方法などについては書かれていません。後にアイヒマンはイスラエル裁判で「殺す、排除する、消滅させるという言葉を使って話し合った」と証言しています。

 この会議以降、西ヨーロッパから絶滅収容所に移送されるユダヤ人は増加し、アインザッツグルッペによる殺害も含めて最終的には600万人のユダヤ人が犠牲となりました。

 ヴァンゼー会議は極秘で行われたため、集合写真は残っていません。議事録も処分されたり空襲で焼失したりで、奇跡的に残ったのは一部のみ、そのおかげで出席者も内容も判明したのです。これはナチス政策を知る上で貴重な資料となり、連合国がドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の尋問でも大いに役に立ちました。

 何百万人もの殺人に関わった出席者たちはきちんと教育を受けた教養人であり、このうち8人は博士号も取得しています。決して精神に異常をきたした殺人鬼ではない普通の人々であり、よき父、よき夫だったのです。

 現在、この邸宅は博物館と教育施設として使用されており、入場は無料です。展示室は9つの部屋に分かれ、それぞれ排除、偏見、国外追放、大量殺戮などのテーマで展示がされています。反ユダヤ主義とは何か、戦後ヴァンゼー会議の出席者はどうなったのか、いま社会はナチス時代についてどう考えているかを問う内容となっています。

 2022年には80周年を記念してシュタインマイヤー連邦大統領がこの史跡を訪れ、「二度と同じことを繰り返さないことが、ナチス犠牲者への追悼を意味します。民主主義国家では、各個人が責任を負うのです。80年前、ここで起こったことを忘れてはなりません」とゲストブックに記しました。「ナチスの殺戮計画はなぜこれほど完璧に機能したのでしょう。あの全体主義体制は悪魔や怪物によって推進されていたわけではありません。個人の責任が認識できなくなるまで多くの小さな歯車が連動したために不正の意識がなかったのでしょう。私たちは責任から逃れず、正義と倫理が許さない場合はノーと言うことをためらってはいけません」とシュタインマイヤー氏は述べました。

 今日はドイツ公共放送局ZDFで映画「ヴァンゼー会議」が放送される予定ですし、1月27日はナチス犠牲者追悼の日ですから、ホロコーストに関する映画やドキュメンタリー番組が普段以上に放映されています。ドイツはこうして加害者としての歴史を毎日繰り返し伝え続けています。


「ユダヤ人問題の最終的解決」会議が開催され館。
現在は博物館。
シュタインマイヤー大統領(中央)。2022年。

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