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(41)死産後の夫との関係性について

[赤ちゃんを33週で死産したことについて綴っています。
読みたくない方は読まずに閉じてくださいね]

昨日はピリッと寒かったけどいいお天気だったのでコーヒーを入れ、お菓子弁当を持って娘と公園へ。娘が遊んでいるのをたまに眺めながら本を読んだ。
夫は久しぶりに友人たちのライブに出かけた。

弁当箱にお菓子を詰めた「お菓子弁当」



死産で娘が産まれてそろそろ1ヶ月。1ヶ月前の今日は胎動の変化を感じで緊急外来に行き心臓が止まっていることがわかった。その時の一気に血の気が引いた瞬間、でもすごく冷静だった感覚を今でもよく覚えている。1ヶ月早いのかゆっくりなのかよくわからないぬるぬるとした時間が引き続き過ぎている。
その間夫との温度差を感じることがあった。ネットで検索するとその温度差を感じる方も多いようで夫婦仲が悪くなってしまうことも少なくないようだ。
検索結果に少し共感もしながら、死産後の夫婦不仲についてあるお医者さんが「夫も死産で悲しんている親である」という記事にハッとした。お腹の中でつながってきた赤ちゃんを喪失した辛さは夫にはわかるまいと一瞬でも思ってしまったことを恥ずかしく思った。夫はきっとまだ誕生していない、でも確実に"いる"その存在がなくなってしまったことの戸惑いがあるに違いない。

そうやって気づけてよかったなと思う。夫はなんでも言って欲しいと言ってくれているので、普段割と外へ見せないように頑張ってしまう私なのだけれど悪態をついてみたり後ろ向きなことを言ってみたり投げやりになってしまったりする感情を我慢せず話している。もちろん夫に当たるという形ではなく話して共有するという形で。本人も辛いはずなのに私のそんな感情も受け止める役割までやらせてすまないと思っているのだけど、ただ聞いてうけ止めてくれる人がいて本当にありがたい。
悪態をついてみたり後ろ向きなことを言ってみたり投げやりになってしまったりする感情を吐き出してはいるけれど、心の奥で「でもそうじゃないよね」とは思っている。例えば「この世なんてクソだ」(汚い言葉で失礼!)という感情が少しでもあったとしても、その逆の「いや、赤ちゃんがやってきてくれた経験は幸せだったよな」という感情の方が遥かに大きい。ただ、今はコインの裏表両方の感情がモグラ叩きのようにぴょこぴょこ出たり入ったりしているので少しの負の感情も消さずに大切にしたいと思っている。一方だけの感情にしようとすると、その一方の感情も無くなってしまう。裏表、光と影両方でワンセットで存在している。

この投稿を死産を経験したご夫婦が見る機会があるのかわからないけれど、もしそんなことがあれば、お腹で赤ちゃんの成長を味わえないからこその辛さがあるのだということを心のどこかに置いておくと違うからこそ共有できる心強さがあるんじゃないかな。
今まで生きてきた中でいろんな感情を味わってきたと思っていたけれど、まだこんな感情があったのかというこの死産という形での大切な人との別れ。
私の体の一部と一緒に大切なものが引き剥がされたような感覚。それと同じ感覚は男性である夫に共有するのは難しい。でも逆に自分に変化はないけれど確かに自分の遺伝子が育まれている過程を味わって、物質的ではないけれど確かにそこに"在る"愛おしいものへの気持ちが育まれつつあった意識みたいなものがプチンとある日急に無くなってしまう現実についていくのもきっと相当戸惑うはずだ。

本人にも言っているけれど、ありがとうという気持ちでいっぱいだ。夫のフォローやケアもしないとだな。
妊娠がわかって高齢出産のいろんなリスクを話された時(高齢の場合話さなくてはいけないものだそうだ)に、「この命はこの人(赤ちゃん)に任せよう。」と腹を括った。もちろん産まれてからのあれこれを楽しみにしていた。声を聞きたかったし目を見て話したかったけれど。
この経験をありがとう。というか継続中だな。引き続きゆっくり味わっていこう。

今日は元々夫の親友である僧侶の友人のお寺へ行く予定。
結婚式も指輪もしていない私たち夫婦なのだけれど、実はここで私たち夫婦2人と彼ら夫婦4人だけでお経と読んでもらってという式をしている。30分もかからないシンプルなその形がとても私たちらしくてよかったなと思っている。
なので今日も大切な日にしたいな。

今日もお読みいただきありがとうございました。


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