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『ミスター検索』 宮崎光世さん〜モトヤフインタビュー〜

-最初にお名前とご年齢をお聞かせ下さい。

宮崎光世(みやざきこうせい)です。51才になりました。

-お生まれと現在のお住まいはどちらでしょうか。

兵庫県明石市出身で現在は東京在住です。

-これまでのプロフィールをご紹介ください。

1997年3月に東京大学の大学院を中退、サーファーとしてヤフーに入社。Yahoo!カテゴリからはじまって検索サービスの企画・運用に取り組みました。具体的にはYahoo!カテゴリ、ウェブ検索(YST)、バーティカル検索、検索連動型広告(YSM)等のプロダクト企画、ディレクション、YST以降はアルゴリズムの評価、米国ヤフーとの共同開発などを推進してきました。

転機としては2015年よりCode for Japanコーポレートフェローとして、神戸市の起業家育成やスタートアップとの連携をサポートし、デジタルとリアルの境界線を意識するようになりました。2017年からはヤフー・データソリューション事業において自治体やDMOと連携し、公共部門におけるDX、データ利活用を推進。2021年4月よりは出身高校の近くに所在する兵庫大学(現代ビジネス学部教授)において、地域創生を志す学部生・社会人大学院生、また他学部の看護・栄養士・介護職等をめざす学生を含めた地域を担う人材のデータリテラシー向上に取り組んでいます。

また、同年6月より神戸市CDO補佐官、2022年6月より宝塚市CXO補佐官、小野市や加古川市のアドバイザーとして基礎自治体DXの現場にも伴走中です。

-ヤフーに在籍されていた期間を教えてください。

1997年3月〜2021年3月の24年間になります。社員番号は36番で、ソフトバンクを経由しないヤフー入社の最初の社員ではないかと思います。

-ヤフーに入ったきっかけは何でしたか?

大学時代にすっかりインターネットにはまってしまい、自分でサイトを立ち上げたり、請負でサイトの制作や運営をしてお金をかせぐようになった頃、阪神淡路大震災が起きて実家が被災したこともきっかけとなって「自分がやりたいことはなんだろう」と考えるようになりました。また米国の小さな地域プロバイダーやパソコン販売ビジネスを立ち上げた人のオフィスを訪問する機会があったり、当時のジェリーやファイロの活躍やインターネットの盛り上がりぶりも知って、1996年の秋ぐらいにYahoo! JAPAN上の募集に応募し入社しました。

ヤフー草創期の社内。箱崎のソフトバンクビル、湯川さん記事の別アングルです。

-ヤフーでのお仕事はどんな内容でしたか?

サーファー→検索企画→プラットフォーム戦略→検索結果評価→データソリューション(公共)という感じです。入社初日の1997年3月4日がファイナンスの立ち上げで、3日連続終電まで仕事するような状態でしたが、とても活気があって何か革命を起こすのを、裏で画策している人たちの集まりのようでした。特にYahoo!カテゴリを作る「サーファー」は発想がおもしろくて変わった人が多かったですね。笑
湯川さんの記事にある井上さんのコメント「とくにサーファーはヤフーの心臓部だから、好き勝手にやってるのが大事」、このとおりだったんですが、、本当にそうで。

1999年12月、Yahoo!incのSurfersの集まり。各国担当が集まっています。

-ディレクトリ型検索エンジンのYahoo!カテゴリを担当されましたが、当時のカテゴリの思想はどういうものだったのでしょうか?

一言でいえば、「知の体系化」です。さまざまな情報が記述されたWebページがあり、そのまとまりであるWebサイトがある。カテゴリはそのWebサイトやWebページのまとまり(概念)をつくり、ページ同士が互いにリンクしあうように、概念同士も構造をもっている。「オントロジー」という言葉がありますが、この世界や人間の知識をどのように表現するかという、大きな課題に本気で取り組んでいました。

カテゴリの大規模化に伴う米国サーファーとのディスカッション

米国Yahoo!の5番目の社員「Srinija Srinivasan」、サーファーネームは”Ninja”といいましたが、彼女が“Ontological Yahoo!”として体系化の基礎をつくりました。彼女は入社前に”Cyc”という80年代から続いていた大規模なAIプロジェクトに参画しており、そこでAI開発のために人間の「常識」を網羅的に体系化することに取り組んでいたんです。

「サイト登録作業」というと単純作業のように思われるのですが、世のあらゆる情報をAIの専門家であるNinjaが考えた一定の原則にもとづいて体系化するのって、簡単じゃないんですよ。世の中は矛盾だらけですし。この体系化の原則論と複雑な現実の間にはまり込みそうな時は、後に哲学者になる吉川さんの存在が支えになってました。あとは他国のアップデートが共有されていてその構造を見たり、岡本さんが図書館の分類体系など、過去の蓄積に学ぶことを呼びかけたりしていましたね。

もう少し平易に言うと本の中には目次があって、ページがあって、後ろには索引があるように、目次から情報を探すのは、リンクからカテゴリを降りていくことに当たるし、索引で単語から探すのは、キーワード検索に当たります。当時はサイトの数も限られていたので体系的な分類が有効で、カテゴリを作ってこれを実現していたんです。

今は膨大な知識の海のようなインターネットに直接情報を求めるけれど、昔は「インターネットには何があるんだろう?」と図書館に本を眺めに行っている感覚でした。ところが、その後、日々処理しきれないぐらいサイトの登録依頼が来るようになり、とにかくしんどかったです(笑)。

そういう人力での限界があり、周りのカテゴリー検索の競合(CSJインデックス、NTTディレクトリ、LookSmart)は徐々に撤退していきました。
また検索対象も、例えば最初は◎◎銀行のホームページ(Webサイトを検索)だったものが、その銀行のこういう内容のページ(Webページ内の情報を検索)というように変化していったと言えます。

-ヤフーで学んだことはどんなことでしたか?

誰もが発信者になれるインターネットの世界で、何十万のサイトに触れることを通じて「ロングテール」とか「多様性」という概念とかインターネットのありようといったものを、身をもって体感できたんです。インターネット的な感覚を身につける修行です。

そして日本からシリコンバレーに通じていた窓です。YST/YSM等でYahoo!incとの協業を通じて、多様な人々が連携し、本質を追求し、技術を理解して、質の高いサービスをつくりあげることを学びました。少しでもそれを追体験してほしいと思い、ヤフーの技術者を米国に派遣したり、Google移行以後も連携プロジェクトを継続したり、神戸市の企画を通じて集まった起業家・大学生・高校生・中学生とシリコンバレーを訪問するというアクションを継続したわけです。

-ヤフー時代のエピソードがありましたら教えてください。

3つの印象的な局面があります。

1つ目は、ヤフー草創期、「トピックス」の生まれ育ち方です。Yahoo!カテゴリの中に「メディアとニュース > トピックス」というカテゴリがありました。当時、世の中で何か大きなニュースがあると、そのニューストピックのカテゴリを作って、ニュースを登録していたのですね。そしてその中で、特にニーズがあるものを「トップリンク」していたわけです。

Yahoo!incのFullCoverage担当。連携のためキュービクルの壁を外しています。

カテゴリの一部なので、「ホットリスト」というDB登録ツールからタイトルやURLを登録し、他のカテゴリと同様に日々それが「ジェネレート(Webに反映)」される。それが、インターネット上のニュース発信が盛んになるのにあわせて大規模化・リアルタイム化するのですが、ホットリストの次の段階は完全な手作業で、サーファーがデータのリストをつくり、制作さんがHTML化してサーバーに置く、その次はその作業をごく簡易なWebツールに置き換える、と、インターネットの変化にあわせてインクリメンタルに成長していきました。

体制的にも奥村さんが読売新聞から転職されて、専任体制が構築されていきました。それが1998年ですから、スピード感ありますね。また、米国でも「フルカバレッジ」という名称で似たことに取り組んでおり、その運用について話を聞きに行って刺激を受けたこともよく覚えています。

2つ目は、検索連動型広告の導入期の話なのですが、すごく大きな時代の分かれ目だったなと。井上さんや志立さんが交渉をされて、OvertureとGoogleの両方を導入すると。世界的にも例がなかったと思うのですが、日本におけるヤフーの立ち位置を考え抜いての優れた判断だったと思うんですね。

2006年ジェリーヤンさん来日時の一枚。検索部門の個性的なエンジニアと。

私はその導入作業を開発責任者の伊藤さんはじめ現場のみなさんと進めたのですが、以降、私はこの二つのプラットフォームの挙動・データを見続ける日々となりました。APIを通じて二つのプラットフォームとそれぞれつながり、データが流れはじめ、クリックが起こり、実際に売上が立ちはじめる。

この二つのプラットフォームはもちろん検索連動型広告(Overtureが起源の、ですね)のビジネスモデルをベースにして、アルゴリズムに共通点はあるのですが、でも性格や育ち方はかなり違ったんですね。この提携でヤフーはビジネス観点でアルゴリズムをどう捉えるべきかを学んだと思います。

3つ目は2010年、検索エンジンと検索連動型広告をYST/YSMからGoogleに変更したことです。これも大きな分かれ目で日本独自の決断をしたわけですが、大きかったですよね。経営から現場までがずっと学び、考え、もがき続けてきたからこの決断ができたのだと思います。また、私としてはそこにいたるまでJoint Steering Committee(JSC)と共同開発を繰り返し、Yahoo!incの戦い方、サービス運営から学んだ点が非常に大きいです。学んだというか、学ばせてくれたという感じで感謝の気持ちが強いです。

Dfes(社内イベント)優勝者とシリコンバレーへ。HortonWorksのEric Baldeschwielerさん(YSTのクローラー・インデクサーの開発責任者だった)、Treasure Dataの太田さんと。Hadoopつながりの一枚です。

-辞めたから分かるヤフーの良さというものはありますか?

サービスへのこだわり、ユーザーファーストの組織文化、特に私の場合は創業当時のヤフー以外ではこんなに長く勤められなかったと思います。

-ネクストキャリア(兵庫大学教授)を選んだ決め手は何ですか?

全く想定外だったのですが、先に述べた神戸市企画のシリコンバレーツアーでお会いした大学教授からお声がけをいただきました。私が通っていた高校から一番近い場所にある大学で教育に関われること、可能性を感じていた自治体の伴走支援とシナジーがありそうだったこと、当時コロナで自宅にいる期間も長かったこともあり、もっと活発に動き回りたいという衝動もありで決断しました。

ネクストキャリアのきっかけとなった神戸市役所のシリコンバレー関連プロジェクトのみなさんと

-現在のお仕事は具体的にどんな内容でしょうか?

週の半分は兵庫に滞在し、大学で授業や演習をしています。残り半分の東京にいる時はその事前準備にかかりきりという感じ。自治体DXの取り組みはオンラインと対面を組み合わせて伴走しています。その取り組みの一つは神戸市の庁内データ連携基盤で、最近表彰を受けました

ヤフーのサービス運営でも、データ分析基盤があって、そこからKPIダッシュボードをつくって、PDCAを回していくと思いますが、同じことをしたいのです。

-現在のお仕事の面白いところ楽しいところを教えて下さい。

大学の授業とか演習とか、全部自分で作れるところですね。話すのは苦手でツラいんですが。

-今、特に力を入れていることは何ですか?

授業をとにかくなんとかかんとかやりきるだけでほぼ力尽きています・・・

-ライフワークやこれからチャレンジしたいことは何ですか?

検索時代、長期にわたって八戸センターの皆さんと関わり、地域とのつながりもできました。また、ヤフーとロート製薬のおもしろい人たちが集まる北海道十勝浦幌、データソリューションで関わった富山県西部、今は兵庫、尾道や米子などなど、いろいろな地域とつながっていくのですが、、、中退した学科は地理学科なのですが、ものすごくゆっくりと自分的な地理の探求を今もしているんだと思います。

-イマヤフに伝えたいメッセージをお願いします。

八戸で呑みましょう!(笑)

-モトヤフや読者に伝えたいメッセージをお願いします。

ぜひゆるく連携できればと思っています!特に地域で試行錯誤されているみなさん!
ご飯食べましょう〜

-宮崎さん、本日は大変ありがとうございました!

(本日のインタビューは川村英樹が担当しました)

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