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ただの大学生があいちトリエンナーレの感想と、弓指寛治への感動をひたすら語るだけ

あいちトリエンナーレの感想と、弓指さんの作品がひたすらに良かった、というお話。

完全に推し(?)への愛を語る痛いオタクのようなテンションでこのノートを投稿するけれど、
特段深い思想を書くつもりは(ほとんど)ないので、軽く読んでいただけると幸いだ。
でも読み始めたなら、読み飛ばしながらでもいいから、最後まで読んで欲しい。絶対。いや、読んでくれると嬉しい。

8月1日、夜。
夜行バスに揺られて、名古屋に向かった。
その目的は観光客向けに若鶏の二倍の値段で売られる馬鹿らしい名古屋コーチン親子丼を食べるためでも、魅力的だが学生には手が届かなさすぎる鰻重を食べるためでも、科学博物館で失われた童心を取り戻すためでもない。

10月14日まで開催される愛知県全体を上げた美術展、「あいちトリエンナーレ」を観に行くためだ。

(初めに前置いておくけれど、私は一介の大学生で恥ずかしいことに政治に関してはかなり無知だし、今回の議論になっているごたごたについてはすこし、雀の涙程度に今の気持ちを述べるくらいで、特別何かを言うつもりはない。ただ、早稲田の大学生として大学の演習の合宿でよくわからないまま受動的に向かい、今回の件に関して熱い議論を交わす学生たちを横目に「夏って暑いね……」なんて分かりきったつまらん独り言をつぶやくことしかできない。腑抜けである。)

今回の合宿ではひとつだけ、私の中に譲れない目標、というかモチベーションがあった。

弓指さんの絵が観たい!!!

弓指寛治さんというのは、おこがましくも私が本気で尊敬する、現在ばりばりご活躍中の若い画家さんのひとりだ。
二ヶ月ほど前大学の講義で1回だけ前で話してくださったことがあり、そもそもアートなんてものにこれっぽちも興味がなく、特に現代アートにおいては「コンセプチュアル・アート?なんだそれは、これはどっからどう見ても煙草の絵だろ」とどこか遠巻きに見ていて、なんの理解も示すことは出来ずにいた、そんな私が衝撃を受け、めためたに打ちのめされて、思いっきり惚れてしまった、そんなアーティストさんだ。

彼に関して説明しているウェブサイトは大量にあるので敢えて私が説明することはないし、私は講義で聞いた程度でしか語ることができないのだけれど、軽く説明だけ述べさせていただく。

弓指寛治さんは、現在33歳。絵を始めたのは名古屋の大学に入ってかららしいが、大竹伸朗の絵に惹き込まれた弓指さんは学生時代に一日に何枚もの絵を毎日毎日描き続け、とにかくひたすら、大学の空き教室を勝手に使ってでも何千枚と絵を書き続けた、とにかく絵が好きな大学生だった。(らしい。)大学を卒業後、自分には就職はできない!と言って友達と事業を始め、(すでにクレイジー)そしてなんだかんだ紆余曲折を経て苦労を重ね会社を成功させ、会社を辞め、アートスクールの講師として仕事をしていたある日、母親が自殺した。

母親の自殺をテーマに、といえば陳腐な言葉になってしまうけれど、
母親のために自分ができること、宗教や言葉ではできないこと、として弓指さんがたどり着いたのは、「自分にできるのは絵を描くこと」という結論で、それが弓指さんの芸術家として本格的に生きるための始まりになった。

という涙なしには聞けない話を聞いて、二ヶ月前の私はぼんやりと思った。

この人、すごいバカだ……と。

だってそうだ。
冷静に考えて大学時代に将来のことを考えずに何百枚も絵を描いて、しかもそれも大学の空き教室なんかを勝手に利用して描くなんて正直ありえないな、と思ったし、
それで自分には就活は向いてないから!と言って事業を始めるなんてあまりにも突飛すぎるし、
そして母親が自殺した、というだけで四ヶ月間も、ずっとその主題に向き合って絵を描くなんて並大抵のメンタルでできることじゃない。まじでクレイジーすぎる。

とにかくこの人の話を聞いて私はこの世にこんなに、何かに怯えることもなく自分の感情を剥き出しにして生きている人のいることを知って思いっきり衝撃を受けていたし、何かと虚栄心を抱えて俯瞰して表現することを怖いと思う自分がほとほと嫌になったし、同時に、めちゃくちゃに、かっこいい、と思ったのだ。

お母様が亡くなってからの弓指さんの作品は「自死」や「慰霊」を取り扱ったものが多い。
そして今回、あいちトリエンナーレで出品した作品も、「鹿沼市クレーン車暴走事故」__栃木県鹿沼市で、六人の小学生がクレーン車に轢かれたという、凄惨な事故を題材にしたもの、だった。

展示は小さな古い建物のワンフロアで行われていて、部屋に入るとまずは事故現場をびっしりと描いた絵が目の前に現れる。
この描き込みももう本当にすごくって、この時点で胸がざわついてしまうのだけれど、
そこから中に入ると六人の少年の肖像画が現れる。

それが、今回の事件の被害者となった六人の少年だ。

そこからの内容はぜひ生で観に行って欲しいところだけれど、
ざっくりとネタバレしちゃっていいのなら、
この作品は被害者の少年「熊野愛斗くん」に焦点を当て、この事件で被害に遭った人たちを描いている。
テレビやニュースなんかで流れたって「かわいそうな被害者のうちの一人」だと私たちは認識してしまうだろう、そんな少年の日常、親との関係、彼が描いていた詩、集めていた鉱石……。
部屋いっぱいに愛斗くんの世界が描かれていて、どうしようもない、「ひとりの人生がなくなった」という現実を突きつけられながら、私たちは部屋を移動していく。

そして奥の扉を開けるとそこには小さなベランダがあって、その向こうの塀いっぱいに、愛斗くんの絵が現れるのだ。
キャンパスの中には学校の校舎とグラウンドが広がっているけれど、その向こうにはオーロラのように深い緑と濃い紺色の空がきらきらと輝きながら漂っていて、校庭で遊ぶ子供たちの頭には桜が散っている。桜を吹き付ける遠くからの風を受けながら、向こうの方へと走っていく愛斗くんが振り向いて、笑顔を浮かべながら私たちに手を振っていた。
その絵は建物の陰になったほの暗い屋外に設置されているからそのオーロラが現実の空と結びついていて、遠くからざわざわと祭りではしゃぐ子供たちの笑い声が聞こえるから、まるで絵の中の子供たちがはしゃいで、生きているように感じられる。絶妙に五感の全てが空間と組み合わさったその絵があまりに圧巻で、私はしばらくその絵の世界に入り込んで、立ちすくしていた。

絵についての知識は本当にないし語れることもない。むしろ本当に迂闊な言葉を滑らせればそれが作品を陳腐にしてしまう気がして、感想を言葉にするのが怖くもある。

弓指さんの絵はいわゆる「めちゃくちゃ技巧の凝らされた」とか「ものすごくリアル」とか、そういう絵じゃない。
むしろ、今回の絵なんて特に、小学生が描いたみたいに登場人物の体のデッサンは整えられていないし、顔も目や口が飛び出たり、色も奇抜で鮮やかな色でべた塗りされていたりして、正直「絵の上手い小学生が描いた」と言ったって、信じる人は信じるかもしれない。

けれど、どうしようもなく胸にくるのだ。

お母様が亡くなった、という背景があいまってそうさせているんじゃねぇの?

と思った方、きっと実際その通りだと思う。

人の死、というのはほんとうに扱うのが難しくて、一歩間違えれば安直に「お涙ちょうだい」と思われがちなテーマだ。
というかぶっちゃけ私も、人の死を簡単に扱う作品は基本的に生理的に受け付けない。安直に涙を誘おうとする感じがめちゃくちゃに無理。本当に嫌いだ。

その上で、弓指さんの絵だけは違う!
なんて分かったようなことを口に出す気はさらさらない。きっと弓指さんの絵を見ても、同じように安直だ、とか不謹慎だ、とか思う人はいるかもしれない。解釈なんてそれぞれ自由だ。

けれど、この事実だけは主張したい。
この作品で扱われているのは、ただの「被害者目線で描かれた死」だけではない。

作品は、愛斗くんの絵だけでは終わらない。
あまりネタバレをすると良くないのだけれど、その絵はあくまで中間地点で、ひとつの事実を描いたこの部屋全体の作品は、また展開を見せる。
ここからは本当に直接観に行って欲しいと思うけれど、この作品が本当に伝えたかったのは愛斗くんがかわいそうな被害者、ということや加害者の糾弾という目的ではない。
むしろ、加害者が実際に抱えていた問題、実情、テレビや新聞ではきっと取り上げられることのなかった、ひとつの事件を沢山の面から見つめたときに浮かび上がる顔だ。

そのために全ての作品にずっと小さな工夫が凝らされていて、何度観ても面白い。(私は短い時間だったけれど3周ほどまわった。)

だから、芸術に一義的な意味を押し付けて観る者に価値観を押さえつけてくるものではなくて、ただ私達は複数の視点を与えられて、そこから深く考え、その裏側にあるすべての出来事に、月並みながらも思いを馳せる。

弓指さんの作品の通底にはとにかく「母親の自殺」という過去があって、決して消え去れない深い深いテーマ、そこから形作られた弓指さんの人生観がある。
弓指さんは本当にずっとずっとそこに向き合い続けてきたのではなかろうか。弓指さんのびっしりと細かい描き込みも、でっかいキャンパス一面からはみ出そうなほど広がって描かれてるのも、全部とてつもなくエネルギッシュで、これを仕上げるのにどれほどの持続的なメンタルと力が必要だったんだろうと考えてしまう。

私自身や、私の身の回りで絵や文章を創作する人は多いけれど、彼らはときどき、自分が造る作品に対して同じような恐怖を抱く。

作品を他人に評価されない恐怖、だけじゃない。

自分をさらけ出して表現することへの恐怖
自分の技術の限界を見せてしまう恐怖
完成しきれない自分の創作物と向き合い続ける恐怖
得体の知れない、思い通りにならない創作物に対する恐怖
自分の表現者としての実力の限界を知る恐怖

弓指さんの作品のおそろしいのは、そんなフィールドでの恐怖心を全く抱いていないところだと思う。

そもそも学生時代に何枚もの絵を毎日描いていたことだって、自分が表現することに対して何らかの恐怖がなかったら、それを続けるのはかなり難しいだろう。

とにかく描きたいから描く。表現したいから描く。
悲しいから表現する。悔しいから表現する。
内側からこみ上がる感情を、そのまんま、技巧だとか上手く見せたいだとかそんなこと気にせず、ただ、そのまんま、描く。

剥き出しの感情が全部キャンパスに描かれて、観る人に思いっきりぶつかってくる。

目を瞑りたくなるし、耳を塞ぎたくなる。

音のない、「叫び」だ。

それを全身で描ける弓指さんに嫉妬するし、大学三年生にして10歳も離れた人に「若さ」みたいなものを見せつけられて正直精神が折れそうになるし、同時にめちゃくちゃに美しくて、かっこいいと思ってしまうのだ。

そんなことを考え打ちひしがれながらも、その生き方に希望を抱く私たちが、絵の前に立っていた。

とにかくひたすら「(推しと呼ぶのはいくらなんでもおこがましすぎるので)憧れの人への重い愛を語る痛い女」みたいになったので、
最後に少しだけ、真面目なことを。

「あいちトリエンナーレ」は今回かくかくしかじか色々なことがあって、
それに対して私は何を言うつもりもないし、今は批判の的になるのは全くもって仕方のないことだと感じている。
けれど、もし「あいちトリエンナーレ」という言葉が社会の偏見に晒されるなら、本当に悲しいことだ。

二泊三日、愛知に直接行ってまるまる芸術作品の鑑賞、観劇に時間を費やしたけれど、私が心の底から感じたのは、とにかくここには素晴らしい作品が沢山ある、ということだった。
ひとつひとつの作品とじっくり見つめあって、それぞれの奥にあるものを自分なりに飲み込もうとしたとき、とてもじゃないけれど、絶対に二日や三日では足りない。
豊田市、名古屋市美術館、愛知芸術文化センター、円頓寺、それぞれの場所に思いっきり広がるどうしようもない主張があって、あふれそうな表現があって、大きな叫びがあった。

もう撤去されてしまったことに関して、これ以上私も何かを掘り起こすつもりはない。
けれど、あいちトリエンナーレに行く、と言ったとき親からは怪訝そうな返事が返ってきたし、その他も少し年齢の高い知り合いなどはなぜか少し引いた反応を見せてきた。
しばらくはあいちトリエンナーレ、という言葉に対して世間からの少しの偏見が続いたり、
逆に何か特別「ヤバい」ものがあることを期待して来て、「なんもねぇじゃん」と唾を吐いて帰る人がいたりもするだろう。
(今日ボランティアしていたときは、
「あの展示撤去されたの?あれを観にきたのに、金返せ!」と怒ってた客もいたらしいけれど、美術館を何と勘違いしてたんだろう? 不思議だ。)

だが、全部抜きにしても、全部を含めても、そこにはやっぱりそこと切り離されていて、それでいてその問題にも直面しているアーティストさんの作品がある。

「表現の不自由展が撤去されてしまった今、おれたちほかの芸術家がいちばん頑張らなあかんところや」
と弓指さんはおっしゃっていた。
無責任に「頑張ってください」なんて、言えなかった。
でも、あいちトリエンナーレには本当にものすごいアーティストさんが沢山いて、どの展示もめちゃくちゃに面白くて楽しくて、表現したいことがじわりと胸に響く。それをちゃんと色々な人に、芸術としてひとりでも多くの人に観て欲しいと心から思う。
主張というよりも、ただの大学生の、独り言のような願いだ。

勝手に題材にしてごめんなさい。
もし何かあればすぐに訂正/削除します。

あのこ
@Anooooooc

オ…オ金……欲シイ……ケテ……助ケテ……