O嬢の物語

もはや古典ともいうべきSMポルノグラフィ。大変有名なのであらすじは書くまでもないと思うが、恋人にロワッシーの館へ連れて行かれたOが見知らぬ男達に共有され陵辱され調教されたあげく「人として扱われない」という状況のもとで、より貞淑でより敬虔な気持ちに目覚め、奴隷状態の幸福に気づくという話である。私は無人島に持っていくならこの1冊(もしくは、ナボコフの「ロリータ」)を選びたい。この本を読むと、私はいつもとてつもなく懐かしい想いに襲われる。

Oの精神状態を非合理的なもの、不可思議なものと考える方も多いと思う。また、マゾヒスティックな性質なのだろうと考えるかもしれない。しかしOはけしてそうではなく、当初はその恋人のために、中盤からは自らの奴隷としての気高さのために、数々の責め苦に耐えているのであって、それらに歓んだりといったことはほとんどないのである。Oの精神は求道者のものであり、Oの安息は修道士のものと同等だ。Oはストイックに(ポルノグラフィにもかかわらず!)その身を捧げ、自己を喪失するにいたって、遂には絶対的で強大な(神ともいうべき)主人の支配のもと、安堵を覚えるのだ。

絶対的な支配(庇護、と言い換えてもよいだろう)のもとでの限定されているけれども安全な自由。この感覚は、私に、幸福な(少なくとも一般的には)子供時代というものを想起させる。決して間違ったこと等いわない良識ある立派な両親、眠ってしまっても安全な自動車の後部座席、必ず守らなければならない門限。この限定された「子供時代の幸福」は、両親(支配者/庇護者)が絶対的なものではないということを悟った段階で崩壊する。

ジャン・ポーランのまえがきによると、O嬢の物語にはふくろう以降の章があって、ステファン卿(Oの主人)に捨てられたOが彼の赦しを得て自殺する、というものであったらしい。しかし、その章は作者自身の手により削除されている。忠実な奴隷であれば、作者の用意した結末がピッタリであっただろう。もしくは、当初Oか交した契約によれば、自ら奴隷状態を解消することもできたであろう。(通常、健全な子供は子供時代の終わりには後者を選択する)
ことの真偽は定かではないが、作者のポーリーヌ・レアージュは、まえがきを書いたジャン・ポーランの愛人であったそうだ。妻や恋人ではなく、愛人であった彼女には献身を捧げる以外になにも出来なかったに違いない。あたかも、Oのように。作者は本心では、当初用意していた結末を望んでいたのであろう。それが、自然であるし同理にかなっているように思われるからだ。しかし実際のところ、彼女は自立し自ら生活していかざるをえない自分自身を忘れることが出来なかった。また、すでに自立した大人であった彼女は、真に「絶対的」なものなど存在しない、ということを知っていたはずである。
どちらの選択肢も選ぶことが出来なかったであろう彼女は、結局最終章を削った。どちらも選ばない、という選択をしたのである。いかにも女性作家らしい判断だ。私は、この小説が、ただのラブレターだったのではないかという気がしてならないのだ。

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