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美少女とフェミニズム

「美少女の記号論」という本を読んだ。この本における美少女とは記号概念としての少女であり、概念上全ての少女は美しいのでつまり美少女、ということになる。創造物である少女がどのように規定され、世間から想定されているかといった研究は古くは「少女民俗学」から「戦闘美少女の精神分析」まで続いており、この本は今までの研究結果を現在の世の中の状況にあわせて多角的にアップデートした形になる。
この本での美少女が今までと大きく異なる点は、つまりいいかえるとゼロ年代以降における少女の扱われ方の変化とは、フェミニズム的な視点が加わったことだ。これは大きな分岐点と言えよう。少女をオブジェクトとして扱ってきた(主に)男性にとって女性の人格が無視できないものとなり、少女をみずからに投影してきた(主に)女性にとって自我が芽生えた、ということであるからだ。
「美少女の記号論」は執筆者が多く、みなそれぞれの視点から持論を展開しているのでひとつひとつを挙げればキリがないため、特に印象に残ったエピソードをふたつあげておきたいと思う。
ひとつめは小谷真理さんの「帝国の美少女」に記載されている、アメリカのフェミニストたちがナウシカやクラリスといった、健気で都合のいい美少女を絶賛していたのはなぜか、というエピソード。現時代の日本人女性ならハァ?て思いますよね?なに寝ぼけたこと言ってんの?と。しかし、彼女たちはフェミニストとしては日本よりも先駆者だったために、当時は権利を主張するために可愛さを捨てて戦わねばならず、かわいいと権利の主張を両立する、次世代のフェミニスト、その象徴であるところの戦闘美少女をうらやましく思っていたのだ。それはつまり、私が権利を主張するために90年代当時は手に入れることをあきらめた、普通であることやがんばらないことを兼ね揃えた、さらに次世代のフェミニスト(セーラームーンのうさぎちゃんみたいな)をうらやましく思うのと同じように。私がナウシカや亜美ちゃんにはなれてもうさぎちゃんにはなれなかったように、彼女たちはワンダーウーマンにはなれてもナウシカにはなれなかったということなのだ。
もうひとつは「一年後の美少女」という対談で小澤京子さんが話されている90年代ガーリー文化についてのエピソード。当時ガーリーフォトとしてもてはやされた女の子達は、写真界の成人男性が少女に打ち負かされたい願望(神や大自然に全てを委ねたい、ナウシカ的なものに頼りたい願望)を根底に持っていたことにより、ゲタをはかされていたという説。同じことは金原ひとみもt.A.T.uにも言える。偶然似たようなことを私も最近考えていたのでショックを受けた。ここ数年の90年代リバイバルを受けて当時のガーリー文化の再構成みたいなのをよく見るのだが、どの展示でも展示している作家(成人しているものの、少女側にカテゴライズしてよいと思う)に対する鑑賞者やキュレーターのスタンスが対等なものではなく庇護の対象(すなわち、概念上の少女として消費)として見ているように感じられたのだ。90年代当時、我々は対等な立場で自己を主張していると思っていた、しかし実際はもっと大きな枠の中で消費され続けていたのだ。そう考えると気持ちが悪くなって、それ以来少女をテーマにしたなにかには距離を置こうと思っている。私はだれかに消費されたくないし、さすがにそれはもうないとしても、だれかを消費するのに加担したくない。
文化というものはひとつの事象をとってもその背景により意味が異なるし、その背景もどの視点、いつの視点からみるかで変わってくる。私が生きている間だけでもずいぶんと変化があったのだ。この本は2017年時点では私の体感にかなり近い分析がなされている。これから先、概念上の少女がより快適に活躍できるかどうかわからないけれど、私はセーラームーンたちを応援し、彼女たちと対等な立場を作っていきたいと考えている。

#読書感想文 #少女 #フェミニズム

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