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植木鉢

 極々一般的な、築三十年ほどの、小さなアパートの三階。くすんだコンクリートの外壁を覆うのは、葉がほとんど落ち、息も絶え絶えといった様子の蔦。
 
 そこの一室の、慎ましやかなヴェランダで、私はいくつかの花を育てている。大したものではないけれど。スーパーマーケットやホームセンターで安く仕入れてきた、日日草、フィエスタ、ゼラニウムなどの鉢を、ぽつぽつと置いて、おざなりに世話をしているのだ。それでも、これらの花が、一年を通じて代わる代わるに咲いてくれれば、私にとっては束の間の目の保養だけれど ―― ピンクの花が多いが、しかし私自身でピンクという色に何らかの思い入れがあるわけではない。たまたまピンク色の花を連続して買い、育てている ―― それだけだ。必然性はない。人生、何でもかんでも必然性を求めることはない。強いて言うなら、「曇り空に映えて良い」と思っているくらいだ。
 
 それはさておき、ヴェランダには唯一、何も入っていない、何も植えられていない植木鉢がある。元々は、これまたホームセンターで値引いていたのを買ってきた、直径と深さがそれぞれぴったり三十センチメートルの鉢だった。赤茶色で、何の変哲もない。
 
 この鉢で、かつて私はミニトマトを育てていた。確かにあれはミニトマトだった。そう断言できるのは、以前にここに入っていた植物をはっきりと覚えているからだ。よく、人の回想で、「恐らく××だったはずだ、今ではよく覚えていないけれど」「××だと朧げに記憶している」などと言うが、ああいうのは、実際にはちゃんと覚えているのに、そうとは認めたくなくて気取っているのだろうか。覚えていようとしさえすれば、そう迂闊に忘れないのではないか。そして、この植木鉢に今は何も植わっていないのは、ミニトマトを枯らしてしまった後、別の目的で使ってやろうと思い付いたからである。
 
 別の思い付きとは、皆さんは奇妙だと思われるだろうが、その鉢の場所を、毎日欠かさず、少しずつ変えることだ。あくまでこの狭いヴェランダ内で、そして場所の変化がアパートの外から見えるように、というゲームルール付きで。例えば、ある時は、エアコンの室外機の上に置いてみたり、その右横だったり。もしくは、白いペンキが剥げかかっているのに業者がなかなか塗り直しに来ない柵の背後で、三日連続で、物差しまで持ち出してきて、きっかり四センチメートルごと、左にずらしてみたり。片道二車線の大通りを隔てて向かいのアパートの住人の視界に入ればと思って、角部屋位置に飾っておくこともある。毎朝毎朝、今日は植木鉢をどこに置いてやろうかと考えると、何とわくわくしてくることか。
 
 しかし、私が朝いちばんに、別の植木鉢の中で生命を保っている花たちの世話にかける以上の熱情と知恵をもって植木鉢を動かしているというのに、それに誰も気づかない。注意を払う者など誰もいない。階下の道には昼夜問わず数多の人が通り、階上に住む人々も私のアパートのヴェランダを日に一回は目にしているはずだ。だが、来る日も来る日も転石のように慌ただしく飛び回る空っぽの植木鉢の存在には誰一人として気を留めないのだ。
 
 とはいえ、こんなことをするのに、「特に特別な」理由があるわけではない。世界とは流動的なもの、万物は流転する。その真実をこうして教えてやろうとしたまでのこと。それが半ばというかかなり無理やりだとしても。だって、暇なんだもの。
 
 一体全体この世の中に、変わらないものなどあるだろうか。”flora and fauna”も無機物も、人の想いも。そもそも、現状維持に膨大なエネルギーと労力とコストが必要になること自体がおかしいじゃないか。「変わらぬものなどない」という法則こそ、不変ではないかもしれないというのに。分かったつもりになっては駄目だ。
 
 私の空の植木鉢を認知する人がいるとすれば、千年に一人、それとも万人に一人といったところだろうか。そんなありがたい人物に出くわしたとき、私はこう答えてやるのだ。息をぐっと呑み、両手のこぶしを握り締め、その中で冷たく滲み出す汗の感触を感じながら。「見間違いなんじゃないですか?」
 
 
※この話はフィクションです。
 
※小川洋子氏と伊坂幸太郎氏の小説をいくつか読み、デヴィッド・ボウイのインタビューを見た後に突然降ってきたようです。

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