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見ているものと見えているものと

通っていた幼稚園にはカリキュラムというものがなく、ただただ好き勝手に過ごしていた。そんな日々の中で覚えた遊びの一つに「メガネづくり」があった。

「メガネづくり」と言っても、先生が作ってくれた厚紙のフレームに好きな色のセロファンをホチキスで留めるだけ。それをかけると見えるものすべての色が変化して、やがて慣れて違和感を忘れて、外しては目に映るものの色彩の豊かさに新鮮な気持ちになる。シンプルだが幼稚園児の私には結構刺激的だった。

時は進んで小学校低学年の頃、太秦で3Dメガネを装着し、映画館で時代劇を観た。矢が真っ直ぐこちらへ飛んでくるので怖くなり、思わずメガネを外した。3Dメガネなしで観る映像は作り手が立体的に見せたいであろうものが二重に見えるだけで、二重に見えるせいで通常の映像にはあるような臨場感すらなく、どうってことなかった。

劇場で貸し出されていた3Dメガネもシンプルな作りで(さすがに紙製ではなかったような気がするが)、幼稚園児の私にも作れたようなアイテムがこんなすごい働きをするのか、と感動した記憶がある。

就活では書類が通っても一次面接で漏れなく落とされた。あっちのエージェントもこっちのエージェントも口を揃えて「コミュニケーション能力も社会性も他と比べてある方なのにどうして落とされるのか分からない」と言う。

模擬面接に付き合ってくれた友人からも「なぜ落とされるのか分からない」と言われた。その友人は、差別っぽくて好きな考え方じゃないけれど正直女の人は笑顔や声の明るさで評価されてしまうことがあるかもしれないからそういうところにもっと力を入れても良いかもしれない、と丁寧にアドバイスをくれた。

今でこそ当たり前のことをこぼさずやり切ることの重さに納得できるが、当時は、こんなに親身になってくれる人ですら当たり障りのないことしか言えないくらい、彼にとってもなぜ私が落とされるのかはっきりとは分からないのか、と不安になった。

何十件と届いた見送りのメールも理由付けはだいたい一行で、エージェントが用意した数種類のテンプレから一番近いのを選んだのだろうと推測されるようなものばかりだった。一番多かったのは「ご希望のポジションを用意できない」というもの。「職種にとらわれずなんでもチャレンジしたい」「ポジションの希望はなくできることを一つでも増やして貢献していきたい」と一貫して伝えてきたので、問い合わせたことはないから実際どのような判断でそういう文言になったのか知る由もないけれど、私は社会が求める基準を満たさないらしい、という思いが日に日に濃くなっていった。

今振り返ると、ほかの候補者と比較する中で自信のなさや不安そうなところがマイナスに評価されてしまったのかもしれない、と思う。

長引く就活で擦り切れてしまった、とか、実績も経験もない状態で、そもそも客観的に判断することが難しい自分自身のポテンシャルを「有る」と評価して売り込むほど楽観的になるのは難しかった、とか、言い訳ならいくらでも思いつく。実際、私の自信のなさは社会で揉まれることでしか克服できなかった。それができなかったことそれ自体が弱みとして評価されることを知っている今もなお、今の私に備わっている社会人経験なしには、他人に自分を売り込む根拠を語るのはかなり厳しいことだと感じている。いや、分からない。この数か月でセルフイメージもそれなりに変わった。もしかしたら来月にはもっと確信をもって「私を信じて!」って言えるようになっていて、頑張って相応のパフォーマンスができるようになっているのかもしれない。

面接の結果として理由が不明なまま拒絶される経験を何十回と経験していくうちに、「私は社会が期待する社会人の要件を満たしていない、それなのに周囲の目を欺ける程度には普通っぽく擬態していて、悪いことに、擬態していることを自分でも忘れてしまっているのかもしれない」という不安が次第に自分の中で育っていった。

就職して、比較的小さな会社の中ですでに醸成されていたいわゆる小さな社会単位での「常識」の壁も、不安を増長させた。いつかも思い出せないその場しのぎや軽い気持ちでかけてしまったメガネにすっかり慣れてしまって、かけている自覚すらもてず外すこともできずにいるのかもしれない、と。

とは言え、就職後は自信全般を取り戻しつつあり、不安の総量は圧倒的に減った。

でも、たまに自分の目だけには何かが違って見えてしまっているのかもしれない、と不安になる。同じ空間・時間を共有し同じものへ目を向けているのに、私にだけ違うように見えているのかもしれない、と。

どうにもこうにも不安が募って、「あなたの目には今何が映っているのか教えてほしい、何か今見えているものを教えてほしい、できれば私もそれを見たいから画像を送ってくれると嬉しい、床でも机の上の教材でも、最悪このlineのスクショでも送ってほしい」と送信しかけて止めた。止めることができて本当に良かった。代わりに当たり障りのないメッセージを送ったのに、どういうわけか画像を送ってくれて嬉しかった。

生の事実の共有より、画像や言葉を見て、人が生の事実から何を抽出してどう見ているか、私のそれとの食い違いはどこなのかを知りたかった。Twitterはそういうニーズにとても適していて、何度も救われている。誰かに頼んで人間関係にヒビを入れる心配をせずとも、人の視界をそっと知ることができる。

幼稚園で遊んでいたセロファンは舐めると甘かったように記憶している。セロハンテープもだいたい甘い。

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