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書き出そうとはしてみたものの

 僕の日常には事件が起きない。ハライチの岩井勇気さんのエッセイのタイトルのようなこの一言が、言ってしまえば僕の日常であり、おそらくは大半の人にとっての日常も、多かれ少なかれ似たようなものだろう。仕事で疲れて夜に近くの公園のベンチに座っていたら、たまたま隣に見知らぬ女性が座ってきて、ふとその女性のイヤホンから漏れて聞こえてきた音楽が、たまたま自分が1年前まで推していたインディーズバンドが解散する際に発表した曲だった・・・そんな偶然は、現実世界ではきっと、バスケットボールくらいのサイズの隕石が、自分の嫌な上司の運転中の車にまるで狙撃したかのように落ちてくるくらいの確率でしか起こらない。大抵の人は仕事で疲れた夜はそれこそ家までまっすぐ帰るし、公園のベンチで時間を潰そうなんて思う人間は、言ってしまえば夜の静けさと遠くから聞こえる電車の走行音に耳を傾けて楽しみを見出せるほどの余裕がある証拠だし、まして隣に座った見知らぬ女性に声をかける男など、今となっては良識のかけらもない無神経な男にすぎないだろう。そんな、事件らしい事件など何も起こらない僕にとっては、適当なお題が、ホーム、注目、買う、と並んだその隣に挙がっているのは、ちょっとありがたい気もする。

 長めの前置きを書いてしまったけれど、雨の日の過ごし方については、僕は少しだけ、自分自身でも楽しんでいる節がある。僕は少し特殊な働き方をしていて、毎日会社に行ってはいるものの、立場としては個人事業主という括りであり、出社時間も退社時間もないいわゆるフレックスタイム的な働き方をしている。自分の受け持った仕事を終わらせられるのであれば、いつ来ていつ帰ってもいいし、なんなら会社を休んでもいい。今のご時世相当楽な部類の働き方であるだろうけれど、勿論正社員では決してないし、企業年金も福利厚生もないし、そもそも出来高払の側面がある仕事なので、ゆったり働く程度の仕事量であったのなら全く食べていけない。なんだかんだで定時以上の労働時間を働いていることが殆どだ。しかも午後出社の僕なんかは、終電以降も仕事をすることもよくある都合上、専ら通勤は自転車で、しかも1時間ほどかけての移動だ。運動には確かにちょうどいいかもしれないが、それでも疲れることは疲れるし、なんだかんだで最近では月の半分は電車での移動になる。そして雨の日なんかは、当然のように電車通勤となる。

雨の日の夜


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 さて、そんな雨の日の通勤事情となると、僕は少しだけ変わってくる。僕の場合、自宅の最寄駅に止まる電車に乗ろうとすると、終電は日付の変わる数分前の電車に乗らなくてはならない。それを乗り過ごしてしまった場合、最寄駅の一つ手前の駅まで辿り着ける電車があるのだが、その電車は24時5分発の便になり、もしその電車まで乗り過ごしてしまった場合には、最終手段として、24時半過ぎに会社の駅を出発する電車に乗り、自宅から約4キロほど離れた駅で降りることになる。その場合、当然そこから1 時間近く歩くことになるのだが、僕はこの1 時間の雨の夜の散歩が、たまらなく好きだ。

やってることは普通だけどね


 スマホという道具はなんとも便利な道具で、一昔前までは携帯電話、カメラ、ラジオ、パソコン、ゲーム機、と複数の家電製品に分かれていたものが、今ではこの手のひらサイズの薄い電子機械一つに統合されている。こんな便利なものがあると、夜中の散歩は俄然おもしろい。駅の改札を抜け、バスはすっかり営業を終了してしまったこの時間。走る車といえばタクシーくらいで、街はすっかり静けさの中。街灯の灯りの中を雨の粒がきらりと反射しているそのロータリーで、終電から吐き出された、少なからず疲労感を滲ませた人々は、皆一様に傘を広げてトボトボと歩き出す。そんな、人混みというにはあまりにもまばらなその中に混じって、駅の階段を降り傘を広げて歩き出すと、僕はすかさずジャケットのポケットからイヤホンを取り出す。両耳だと危ないからな、なんて思いながら片耳にイヤホンを差し込んだ僕は、そのままスマホのラジオアプリを起動する。放送中の番組でもいいし、タイムフリーで聴ける番組でもいい。好きなお笑い芸人のANNでもいいし、出演していると見るや必ずその作品をチェックするような役者さんのトーク番組でも、推しのアイドルグループのラジオ番組でもいい。とにかく、雨の降る、コンビニと街灯と信号だけが明かりを灯している、静寂に包まれた深夜の青梅街道を、ラジオ番組を聴きながらトボトボと歩いて帰るこの家路を、僕は心の底から愛している。


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 きっとこれは、もう少し早い時間、まだ街が眠りにつかず、そしてもう少し同じ道を歩いている人々がいる時間では、きっと楽しめないのだ。長い青梅街道なのに、そんな中で視界に移る人間は、一人いるかいないかだ。走る車も、終電を逃してしまったのであろうお客さんを乗せて走るタクシーか、近隣のコンビニやスーパーに品物を配達しているのであろうトラック、はたまたこれから新聞配達に回り始めるバイクくらいだ。時間はかかるし、帰りも遅くなる。けれども、僕はこの帰宅の途が、本当に心地いい。仕事終わりに銭湯に寄るとか、どこかのバーで小一時間ばかり軽く飲んで帰るとか、そんな時間とお金の使い方よりも、こんな過ごし方の方が、僕には遥かに楽しいのだ。月明かりの下、静かに雨が降りしく静寂に包まれた空間が、家に向けて歩く僕の体を毛布のように包み込む。そんな、無音の街に身を委ね、イヤホンから聞こえてくるラジオの声に耳を傾けるそんな時間のおかげで、どうにか僕は、また明日も仕事だな、何時間後には起きねばだ、などという思いと共に、トボトボとした歩調ながらも、一歩一歩、今夜も街を歩き続けている。


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 もしもお読みくださった方々がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。



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雨の日をたのしく