2がすきだから、2020.02.02に綴りはじめたっけ。あ、symmetryね。

けど
そっと置いていくにはまだ青いトマト。

やっと思考が熟れてきたので、溢れる言葉たちの行方を追ってみることにする。

わたしは話すのあんまりうまくない。そっと気づける人でありたくて、そっとしてたり。でも、言葉にすることで誰かの心をゆさぶれるんだって。それをるね語と名づけてくれたひとたちが教えてくれたから、心よりありがとう。

昔から、とある違和感があって。それに離人症や共感覚といった、名前がついていることを20歳をすぎて知った。なんか安心したし楽になったんだよね。はじめて、その感覚のことを綴ってみる。


夢か、現実か、

小学生の頃、いじめにあってから、ストレスからなのか、ふとした瞬間に夢か現実かわからなくなる現象が起きるようになる。ふいに身体と意識や思考が遠のくような。スイッチが切れるようにあらゆる実感がなくなって、斜め上から自分を眺めているみたいに感じる。ほっぺをつねってみると痛いから生きてる、という事実だけはわかる。不思議とパニックにはならなくて、あれ、今、夢?って、現実との狭間をゆらいでは、滲むように元に戻る。その状況をただ受け入れる。自分の動作や行動を遠隔操作しているかのように、急にベールに包まれる実体。ゆっくりとズーミングするような意識。体感時間はわりと長くて、魂が寝てるんかと思う。当時は頭のCT撮ったりしたけど原因不明だった。震えがとまらない時期もあって、幼いながら、自分と外界との間に空白があってそこに消えてしまうんじゃないかって。全然、病気って自覚はないし、今でもたまに疲れてるとなる現象。今はそのスイッチが入るとむしろ楽しんでるんだけどね。


知覚するということ

音に色がついて見えるのは物心ついた頃からずっとあって、皆そういうふうに感じてるものだと思ってた。4歳からピアノを習ってたけど、楽譜をよむのは苦手で。でも絶対音感があるのは音階が色づいてるからなのかな。ある時、発表会の課題曲を先生が弾いてくれて、どれが弾きたいか聞かれた時、どれもなんか寒色で気にくわず、オレンジっぽい曲が弾きたかったから、自分で作曲して発表したのを覚えてる。

色をもつ素粒子が動きや色を変えて、テクスチャと味覚を伴ったり。横断性をもった感覚が連動して知覚してるんかなーなんて。

人の印象とかオーラみたいなものにも色を感じる。それは声色も影響あったりするんだろうけど、なんかこの人朝焼けのブルーだなあとか、透明だったり、模様になってる人もいて。心の質感を見出すように、最近ちゃんと伝えるようにしているけど、意外にもその色にルーツがあったりして驚く。仲良し夫婦は補色だったり、何より楽しい。特に良し悪しはないけど、快いかどうかはある。

あと、文字に対してはあんまりないけど、曜日とか、数字の0は白、1は黒、それ以外は色彩を感じる、みたいなのは多少ある。計算に色が伴うのは困ることも。

ある種、昔は辛い、悲しいといったマイナスの感情から心を救う為に、起こっていたことかもしれない。人生の駒を進めていくにつれて、繊細じゃないフリをしたこともあったけど、想像力豊かな人々に囲まれて、自分を許せるようになった。

どうして人はカテゴライズし定義されることで落ち着くんだろうね。

いつしか、これらをポジティブに生かして、人々に感性をおすそわけできたら、人々の心に余白を与えられたら、なんと幸せなことかと。そう気づいてから、ありとあらゆる日々を愛おしく思ふ。

すきなことをめいっぱい、純粋に芸術の道を歩ませてくれた家族に感謝だなあって。
生きてるだけでいろんな感情にもなるし、苦難もたくさんある。それでも、すべてに意味があると、乗り越えながら、何があっても、心が豊かでいることを大切に生きることを教えてくれた。

恩返しとともに、うつくしいものを、愛を、生み出していく。わたしが生きているかぎり、その使命がある。誰かにとって、読点とか、フェルマータみたいな存在でいたい。がんばらな、ね。


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