言葉はあらゆる営為に充満している
事実として、私たちの認識は常に言葉を伴う。言葉なき認識というものはおよそ存在しない。試みに、言葉の外で何かを理解しようとしたり、そのようなことが可能だと信じたとしても、言葉を抜きにして表明したり、内省したり、信じたりすることはできない。なぜなら、表明することも、内省することも、ひいては信じて独り言ちることさえも、言葉によってなされるからだ。認識とは私たちのあらゆる営為の総称である。「言葉の外側」という信仰も結局、言葉を伴ってなされる営為なのだ。
では、言葉の意味そのものはいったい何によって根拠づけられたり、正当化されるのだろうか。否、そのようなものはないのだ。いかなる根拠づけも、また言葉によってなされ、根拠づけられているからだ。常に論点は先取されてしまう。言葉の外には出られず、言葉が織りなす網目にしたがって動くことしかできない。言葉はあらゆる営為に充満している。
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