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言葉はあらゆる営為に充満している

意味を尋ねるわれわれの問いが突き当たり、突き返される地点がどこかに必ずある。言葉がどもり、空転する地点。言葉の背後にある意図や、言葉に込められた思いを持ちだすことは、何の役にも立たない。それらまた、同じ言葉で語られざるをえないからである。(中略)。ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを、覚る、、ことなのである。

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書(1995) 66頁

事実として、私たちの認識は常に言葉を伴う。言葉なき認識というものはおよそ存在しない。試みに、言葉の外で何かを理解しようとしたり、そのようなことが可能だと信じたとしても、言葉を抜きにして表明したり、内省したり、信じたりすることはできない。なぜなら、表明することも、内省することも、ひいては信じて独りちることさえも、言葉によってなされるからだ。認識とは私たちのあらゆる営為の総称である。「言葉の外側」という信仰も結局、言葉を伴ってなされる営為なのだ。

では、言葉の意味そのものはいったい何によって根拠づけられたり、正当化されるのだろうか。否、そのようなものはないのだ。いかなる根拠づけも、また言葉によってなされ、根拠づけられているからだ。常に論点は先取されてしまう。言葉の外には出られず、言葉が織りなす網目にしたがって動くことしかできない。言葉はあらゆる営為に充満している。

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