言語化が大切なたったひとつの理由
駆け出しの頃、尊敬する先輩写真家に言われた。
「考えすぎると撮れなくなるよ。」
私が頻繁にブログで写真に関する考察を書いていたからだろう。「言葉で考えるな、感じろ」ということだと理解した。
たしかに瞬間を捉えるスナップ写真には思考がじゃまをすることがある。私は先輩の言葉にささやかな反発を覚えながらも、それは自分のプライドがそう思わせているのだと考え直し、思考をできる限りやめ、心の動きに従って撮るように自分を仕向けた。
その後、デジタルカメラ、さらにはスマートフォンが普及し、世の中に写真が溢れ、心の動きのままに撮るいわゆるストレートフォトが、表現として成立しづらくなった。
作品を発表するときも、ステートメントと呼ばれる文章で作品の背景を言葉で説明することが求められるようになった。
だが、先輩の言葉が喉に引っかかる魚の小骨のように意識に残っていた。加えて、「そうはいっても言葉にできないことを写真にしてるんだよ」と、言語化しないことの意味も理解していた。日本文化では言葉での説明は抜きにして型を学ぶことをよしとしてるし。
主宰する写真講座でも、受講生に言語化の意義を問われれば、言語化をしたくなければしなくていいけど言語化を大切にするアメリカがマーケットの中心だから書いた方がいいかもねと、曖昧な立場を取っていた。
言語化が盛んになったのはアートだけではない。スポーツにも言語化の動きがある。
先日、サッカー日本代表がアジアカップで、優勝候補と言われながらベスト8で敗退した。多くの分析家が、その敗戦の理由は、試合中の戦術変更がなされなかったことだと言っている。
現代サッカーでは、戦術の研究が盛んだ。世界中どこにいても欧州のトップチームの試合を観ることができるため、その戦術を研究し、自分たちのチームに活かそうとする人たちが世界中にいる。日本が敗れた中東のチームも戦術を研究し、試合中もベンチのコーチと客席の分析官でリアルタイムに情報を共有している。
もっと強く当たれ、もっと速く寄せろ、という指示だけは、もはや勝てない。
相手がこの陣形のときは、Aがここ、Bがここで守って、ボールがここに入った時にAがこう、Bがこう動く、という戦術の共有が必要になる。
そんなとき、図だけではなく、言語で共有することが不可欠だ。「サイドに振り分けて崩す」「同サイド圧縮」など、チームとしての共通認識をキーワードで持っておくことも大切だ。
久保建英のコーチとしても有名な中西哲生さんが、以下の動画で、言語化することの意義を端的に語っていた。
中西さんは現在、プレミアリーグで活躍する三苫などを輩出した筑波大学蹴球部のテクニカルアドバイザーをしている。
戦術だけでなく、「中西メソッド」と呼ばれるさまざまなテクニックやありとあらゆる練習方法を言語化し、実践している。
そんな中西さんが動画の中で
言語化すると再現性が出る。
と言っている。いまひとつクリアでなかった言語化する理由がここではっきりした。
日本文化では言葉を抜きにして型を学ぶと上で言ったが、実は日本文化の最たる例である【能】では、あらゆることが言語化されている。
舞台に立つ者の心構えから稽古の方法、さらには型や謡や囃子までもがすべて本になっていて、言葉と図、記号で説明されている。
それは、能を志すすべての者が等しく技を再現できるようにするための言語化である。ある時点までは門外不出の本であった。能は即興的要素が多い舞台に思われがちがだが、実はかなりかっちりした約束事のうえに成り立っている。
先日開いた展覧会では、制作に入る段階で、目的、テーマ、モチーフ、使う色などを言語化した。その結果、これまでのどの展覧会よりも「ブレずに」制作できた。つまり再現性が上がったのである。
なんとなくやっていることには、それがクセになっている場合を除いて、再現性は少ない。なんとなくこうやったらこうなったんで次もそんな感じでやってみたらなんかちがう感じになった、と。
アートでステートメントが大切とされるのも、その人が作品で一貫して大切にしていること、キャリアを通して貫いていることが問われるからだ。
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