見出し画像

アーティストにとって「原風景」がもつ意味

むかしから写真作品が「暗い」とからかわれる。

あるカメラメーカーでお世話になった人が、かつて新製品に±2段の露出補正(撮るときに写真を明るくしたり暗くしたりできる機能)を入れることを会議で通すとき上司に「-2段補正なんて使う人いるのか」と訊かれた際に「はい、安達ロベルトという写真家が使います」と答えて無事通ったと教えてくれた。

息子が低学年のときパスポート申請窓口で、私が撮った息子の証明写真を手渡すと、職員の女性がしばらくそれを見ながら「写真が暗いですね。受理されない可能性があります」と言ってきたときには、さすがに笑ってしまった。ブルータス、お前もか。でもとうちゃんは暗い写真にしたつもりはなかったのだよ。

日本語ではいつからか(昭和に入ってかららしい)、人の性格を「明るい」「暗い」と明度で表現するようになった。

「暗い人」「根暗」といった表現は、若い層を中心に、周囲からもっとも言われたくない言葉のひとつになっている。暗いと言われないために懸命に明度の高い作品をつくろうとするアーティストを過去に何人も見た。

だから人が私の写真作品を「暗い」と言うとき、プラスの意味で言うことはほぼゼロだ。性格が暗いからだと考える人も多い。

だが私は、作品が暗くても性格とは別だからと、そう言われることについてはなんとも思っていない。意図して明度、コントラストを下げた作品はたしかに暗い。でも周囲から揶揄されようが批判されようが、理由はわからないけどそういう作品がつくりたくなるときがあるからつくっているだけだ。

ところがあるときから、それが自分の「原風景」に起因するのではないかと思うようになった。

個展に向けて水彩画を描いているときだった。描きながら、自然に低コントラスト、低濃度の色づかいをしたがっている自分がいた。描き進めるうちにふと、これって「あの風景」を再現しようとしているのではと、思わずたじろいだ。あれほどネガティヴな印象しかなかったものを再現したいはずがない、そう信じていたからである。

雪深い地域で生まれ育った。幼いころ、吹雪のなかの登下校が毎日毎日いやでいやでたまらなかった。片道1時間はかかったであろう。吹雪のなかで、周囲は低明度、低彩度に見え、顔は冷たく、音はミュートされていた。あの景色、あの肌感覚、あの音像が、自分の原風景のひとつであることを、そのとき初めて自ら認めた。一度認めると、そこからネガティヴな感情は消え去り、きわめて個人的な五感の記憶だけがニュートラルに残った。

絵を描くときだけではない。思えば、作曲するときも無意識に、あの音響体験、肌体験を再現しようとすることがあると氣づいた。

原風景とは、その人がもっとも影響を受けた、意識の奥にある原初の風景のこと。幼いころに過ごした土地の風景だったり、多感な時期に見た景色だったりする。懐かしさを伴うことが多いが、必ずしもポジティヴな印象を持っているとは限らない。また、実存する風景でないこともある。視覚的な記憶だけでなく、聴覚、嗅覚の記憶である場合もある。

印象的だったワークショップがある。銀座撮り歩きワークショップに講師として招かれ、テーマを「原風景」にしたときのことだ。各自の原風景を思い出し、それを銀座の街中に見つけて撮ってみようという、いま振り返れば無謀とも思えるタスクを参加者に課した。そもそも原風景という言葉を初めて聞いたという人が参加者の1/3ほどいたし、それを思い出して銀座に見つけるなんてかなりキビシイとスタッフにも言われた。だが半ば強引にそれで押し通した。

2時間ほどの撮り歩きから戻ってきて講評する写真を選ぶ段階になり、多くの人が「むずかしかった」とささやきながら作業しているなかで、目を輝かせている女性が2人いた。彼女らは、いつもなぜか惹かれて撮ってしまう被写体があって、それを撮りたくなる理由が今日はっきりした、と言った。

ひとりは「ずっと金属に惹かれて撮っていた。今回、父の営む町工場で幼い頃遊んでいたときのことを思い出し、その理由がわかった」と言った。工場独特の嗅覚の記憶とも結びついていたはずだ。もうひとりは「父がグラデーションのようにグレーの服を多数集めていた。それを幼いころよく見ていたことを思い出し、私が写真のグレーのトーンに強いこだわりがあることと今日結びついた」と言った。彼女はおそらくグレーのなかに服に触れたときの手の感覚をも連想するのだろう。

神戸で開催した別なワークショップでは、ある女性が「窓から外の光を覗き見るような写真を撮るのが好きで、その理由が今日分かった」と言った。彼女は幼い頃、喘息のために入退院を繰り返した。病室から窓の外を見ながら「早く外に出たい」と毎日思っていたという。

それらは、彼女たちにしかないきわめて個人的な体験にもとづくものだ。そこから産み出された作品は、オリジナルだった。

オリジナル(original)、その語源は古期フランス語 origine(発端)にあって、名詞は origin。起源、原点などの意味がある。

あなたのつくりだすものはオリジナルだというとき、私はそこに2つの意味があると思っている。

ひとつは、一般的な意味で、独自性があるという意味。たとえば、この曲はオリジナルだといえば、誰かのコピーやカバーでないということを意味する。社会的な意味でのオリジナルだ。

もうひとつは、私が勝手につくった解釈で、その人の「起源、原点 = オリジン」にかかわるという意味。アートでは原風景から派生する作品。こちらは個人的な意味でのオリジナル。

なぜだかわからないけれどつくりたくなる、無意識にそうしてしまう、ということが、原風景に起因していることは少なくない。

アーティストの原風景には「アートの原体験」も含まれる。

この作家、この作品がきっかけとなって制作をするようになった、アートを志すようになった、ということが、多くのアーティストにあると思う。展覧会だったり、コンサートだったり、画集や映画かもしれない。だが多くの人が、その後学んでいくなかで多種多様な影響を受け、そのことを忘れていく。

しかし、その人の「アートの原体験」「アートの原風景」はずっと心の奥にあって、とくべつな意味を持ちつづけている。制作に迷いが出たとき、行き詰まったとき、その体験を思い出してみるといい。何かヒントが見つかるはずだ。

原風景、つまり感性の原点、オリジンから派生する作品は、その人にしかつくれない、その人にしかできない、きわめてオリジナルなものなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?