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“ガムシャラ”という幸せ


今夜も、街中を見渡せるあの場所まで走る。

ずっとそこで暖かく光り続けていてくれている安心感が、きっと、この街のランドマークたる所以だ。

あの場所まで、あと3.5km。

あと、2km。

あと、1km...

遠かろうが近づこうが、同じ色の光で待っていてくれる。

そのことが今はすごく、ありがたい。



ガムシャラ



最後にガムシャラになったのはいつかって聞かれて、歳を重ねるたびに答えにくくなっていくことが寂しかった。

高校生になったらこうしよう、大学生になったらあれしてみよう、社会人になったらあの人みたいになってみたい。

そうやって思えてきたことがたくさんあるのに、全部そこから先へ行けば行くほどに何もなくなっていくことが、自分の人生がいったん終了したかのようになることが、新しい家族をつくることで制限されることが増えるのが、役職が高くなればなるほど身動きがとりづらくなることが、そんなことのすべてがやるせなかった。

身体が衰えていくにつれて体力が無くなっていくから?心の若さが消えていくから?自分自身の人生に、だいたいこんなもんかと見切りがつくから?もっといろんなことに全力で生きていたじゃん。ちょっと前まで一緒に夢とか希望とか語ってたじゃん。「現実は」と言って逃げるのも、「安定」を求めてほんとにやりたいことから目を背けてるのも、それでいいの?ずっとずっとそんなままこの先同じように生きていくの?

なんて、さ。そうやって思ってしまう私のほうが、“世の中”とか“一般的には”とかからはズレてるのかもしれないね。だけどそれが正論なのだとしたら、こちとら生まれた瞬間からズレてんだわって話なんだ。


真面目さと不良



不良が更生するとそれだけで感動するという現象がある。

口も聞かずに反抗ばかりしていた少年が、母親に「ただいま」と言う。ただそれだけの「当たり前」が「感動」に変わるのは、普段真面目に生きている大多数の人なら当たり前にしていることで、そこが真面目だけが取り柄の人の報われない部分であり、真面目イコールつまらないとされてしまう所以なのだという嘆きをよく聞く。

だけど、そうじゃないんだと思うんだ。

その話が感動するのは、その不良少年が母親に「ただいま」と言えたから、ではない。その不良少年が、不良である自分の弱さを受け入れて、その上でその弱さと共に乗り越えた試練の結果があるからこそ更生したときに感動が待っているのであって、真面目だけが取り柄でつまらないとされている大多数の人の何がつまらないかってのは、その自分のつまらなさを心の底ではちゃんと受け入れられていなくて、本気で乗り越えようともしていなくて、誰かの心を揺さぶるようなアクションを起こす気配もないからつまらないんだと思う。埋もれちゃうんだと思う。

真面目なのはいいことだとか、真面目がいないと世の中回らないとか、自分を正当化できる真っ当な言い訳ならこの世にはいくらでもあるからこそ、変われない自分を守ることも上手くなる。ずっと守備。一度も打席に立っていない。打席に立つのは怖いんだよ。怖い。一人で立たないといけない打席では一手に注目を浴びるし、失敗するリスクもある。だけど、打席に立たないかぎり、ホームランは打てない。ホームランどころじゃない。ヒットもゴロも打てない。塁へ走り出すことさえできない。

だから、不良が更生する話っていうのは、一見、やっちゃいけないことばかりして人に迷惑かけまくってきた不良が、そんな自分を省みて、打席に立つ為に筋トレして、ちゃんとランニングして、バットの握り方学んで、ピッチャーと向き合って、自分を信じて、バッターボックスに立って、ホームランを打つという話なんだよ。だから最終回でちょっと母親に「ただいま」とか言うだけで、恩師に「ありがとな」とか言うだけで、友達に「悪かった」とか言うだけで、真面目な人が毎日言ってるようなこと言うだけで、感動するんだよ。


これはさ、全部、自分自身に言ってんだよ。



◇◇◇



東京でやりたいことはやり尽くした。

行きたい場所にも行き尽くした。

会いたい人にもちゃんと会いに行った。

私なりの誠意を尽くしきった。

この街への幻想を、現実のものに昇華させることができた。


ちゃんと、生きた。

東京の街を。

ちゃんと、ちゃんと生きた。

楽しかった。

心から、楽しかった。

一生かけても味わえないような気持ちに何回もなった。


この街だからこそ、そうさせてもらえた。

思いきって、この街にきてよかった。


この街を、心から謳歌した。

本当に楽しい20代だった。


未練はもう、ひとつもない。



本当に、そうか?




◇◇◇



レインボーブリッジを横目にして、浜離宮を通過すると、汐留に入る。もうすぐオレンジ色の光が見えてくる。


あとはもう、そこに向かってまっすぐに進んでいくだけだ。


1キロ6分30秒のペースを保ったまま、東京タワーのふもとまで、走っていけるだけの体力がついた。

秋になり、過ごしやすい夜がきた。夏の夜よりも、この季節のほうが、東京タワー下には人が集まることを知った。

そのまま立ち止まらずに群集から離れ、日比谷方面へと進路を進めると、もうすぐそこには皇居がみえる。

あと、3km。余裕だな。

そう思えるまで、体力がついた。

そのまま東京駅をぐるっと半周して、銀座に戻ってくる。


きっとこの私の真面目さが、毎日10km走ると決めた約束を、破ろうとしないのだ。


重さも、閉塞感も、しがらみも、全部抱えて走る。恐れも期待も夢も、老化も捨てられない若さへもアイツらとの約束も、親友達と過ごす老人ホームも楽しそうだななんてあん時の会話も、幼馴染からの意味わかんない宣言も、全部、今は、今だけは、走っている時だけは、まっさらになれる。


大事なもの抱えすぎて抱えきれなくなって投げ捨てて、それでも残っていた連絡先の数件と、元々私のSNSになんて興味すら示さないようなヤツらだけにほんの少し寄り掛かって、無くしたくないいくつかの思い出だけを胸にしまって、今日も、この街を走っていく。

今は、ガムシャラになれることが目の前にあるということがきっと最大の、私の幸せだ。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。