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再会の時(コーヒー・タイム)  

 ちょっとした親切にほろっときてしまう。髪を切ればどこかリセットされた気分になる。それはどこまで続くだろう。傷ついているのか、傷つきやすくなっているのか。ただ単に疲れてしまったのかもしれない。人の声が懐かしくて仕方ないのか、完全に無視することができない。新築マンションの勧誘か。金がないと笑ってもあきらめずにアンケートを持ちかけてくる。「20秒だけ……」だけど、交差点は1秒を争う場所なのだ。時間がない。モスバーガーでね……。

「早くコーヒーを飲んでゆっくりしたいんです」

 ゆっくりするのを急いでいる。口にしてみて恥ずかしくなった。何という矛盾! 時間は散々捨ててきたようなものなのに、くれと言われると急に惜しくなるのだ。



 隣人は夢中になれるものを持っていた。大胆に広げたり、折り返したりしながら、食い入るように新聞を見つめている。滲む世界、幸せな気配がする。活字中毒。夢中になれるものを持っている人は、強い。世界を「それ」と「それ以外」とに割り切ることができるから。羨ましい人は、突然近くにいることもある。

 ペンを立てる。寝かせる。傾ける。影を見つめる。コーヒーの残りを確かめる。肘を抱える。シャツの色を確かめる。ポメラを開く。また閉じる。外の明かりを確かめる。俯く。脚を組む。前方に傾く。テーブルに指をつく。指を離す。虚無の運動。
 恐れは理由もなく訪れる。形なきものを追いかけていたのに、形にならないことを今は恐れている。

「秋ですね」

「そうですね」

 一言で終わってしまうあの感じ。言葉の孤独が恐ろしくて、ずっと書き出すことができずにいた。足が竦む。「上手く行けば……」そこから夜通し会話は続くことは知っているのに、どうしてこんなに恐ろしいのだろう。何かを作る自信。何かになる自信もない。虚無に支配された時間、僕は何もできなくなる。

 ゆっくりと時が流れる。一口が深いから、じっくりと味わうことができる。コーヒーは俳句に似ている。小さくても中身が濃ければ、ずっと浸っている人がいる。いつまでも飲み込まずに、噛んでる人がいる。短い中に「永遠」が留まっているようにみえる。儚い人の世に重なって共感を呼ぶ。

 訪れた時には隅の席が占められていたので、やむなく詰めてかけた。あれから時が経ち、あちこちの隅が空き始める。残された者たちが固まって少し密になっているようにも見える。「もしも今やってきたとすれば……」こんなフォーメーションは取らないだろう。突然に席替えを始めることも、罪ではない。だけど、そろそろ隣人も行く頃ではないだろうか。

 しあわせは継続する時間だ。コーヒーは目の前でじっと待っていてくる。繰り返し再会が約束されている。それはなんて素敵なことだ! コーヒーを一旦置いて……。そのためにテーブルは平らにできているのではないか。もしもテーブルがデコボコの岩だったら、バランスを崩してひっくり返ってしまうだろう。

 猫背になったまま固まっているとコバエがやってきてカップの縁にとまった。指で払おうとして指を伸ばすとコバエはコーヒーの中に落ちて黒い点になった。死んだ。それがコバエの最期だった。スプーンでコバエの浮いたままのコーヒーをすくってトレイの上に置いた。カップを反転させてコバエのとまらなかった縁を手前に持ってきた。大丈夫。僕は生まれてしばらくの間は左利きだったのだ。

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