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自分をバラバラにしてでも無数の猫になりたい、というのは。

将来の夢は、わたしの細胞が全てバラバラになってそれが世界中のあらゆる寂しい人のところへ飛んでいって、そこで細胞分裂を起こして猫になることなんです。猫はあくまで比喩です。猫アレルギーの人の元には私は何かほかの癒されそうな動物に細胞分裂するか、食物の種となって飛んでゆき、そこで何か栄養のあるものを実らせましょう。

それを言うと「自己犠牲が激しいの?」と言われることがあるんですけど、いいえ、これは自分のためです。

「わたしは自分という体をバラバラにしてでもであらゆる人々を救いたい」欲求があるのかもしれません。救いたい、というのは愛したい、ということです。
わたしには知性が足りませんから、言葉巧みに誰かを救うことができません。わたしにできる「救い」というものは自分の体温を分け与えることくらいなのです。だから、たくさんの柔らかい猫になりたい。

愛の神様になりたい。
おろかにも、何年も前から言っています。

もっと肉体的な願望を言うならば、私は自分の体を無数にコピーして、あらゆる寂しい人を抱きしめたい。

これは、おそらく自分が心底抱きしめられたかったという願望の裏返しなのだと思います。

たくさん愛したい、それはたくさん愛されたい。そう言うことなのだと思います。

「将来の夢」と言ったって、目標ではありませんから「理想」といったほうがいいのかもしれない。でも、「夢」という言葉が「叶わぬもの」というニュアンスを含むものなのであれば、私はその「夢」という言葉を信じて託してみたい。

愛の神様になりたい。

でも、叶わないのはわかっているので、
だって、愛を与えるということには依存がつきもので、依存が伴うとわたしは動けなくなる。バラバラになれなくなる。

だから、せめて、わたしを大切にしてくれた人たちに、わたしを愛してくれた人たちに、それが少しでも返せるよう。私を救ってくれた人たちが困ったときに今度は私が助けられるよう。

そういう身の丈に合った「夢」を、「目標」を持てたらなあ、持てたらよかったなあ、自分がバラバラになってたくさんの人を愛せたらよかったのになあ、というのが私が毎晩部屋を暗くして白湯を飲みながらティーライトの元で日記を書きながら泣く理由です。

瑠璃

あなたのこと忘れない