日記随想:徒然草とともに 2章 ⑰

 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思えば 
 史上有名な藤原道長が詠んだとされる和歌。道長は西暦966年、京都の公卿藤原兼家の五男として生まれ、1028年に没した。長女彰子は一条天皇の中宮彰子、次々子女を天皇の后として入内させ、三人の天皇の外祖父となっている。太政大臣,摂政関白としても栄華を極めた人物で、彰子には紫式部が女官として仕え、道長は光源氏のモデルともいわれている。

 徒然草第25段は、この藤原道長とその一門の目もまばゆいばかりに栄えた時代から300年近く経た1300年代中期の頃の、一族の栄華の痕を辿る文ではじまる。”飛鳥川の渕瀬常ならぬ世にしあれば・・・”と書き出し“時移り事去り、楽しび悲しび行きかひて,はなやかなりしあたりも人すまぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李もの言わねば、誰とともにか昔を語らん”と、古今集や漢朗詠集などの和歌のことばを、随処にたくみに転用しながら”見ぬいにしえのやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき”と結んでいる。このあたり、暗唱して朗詠したいような名文である。

 ともあれ、ここで法師が云わんとすることは、この世の栄耀栄華のむなしさで、京の都に栄えた藤原道長一門が京都の一条通り一帯に造営していた華麗な御殿がどのようなことになったかを語ることで始まる。”御堂殿(道長)のつくりみがかせ給いて、荘園多く寄せられ、我が御族のみ、みかどの御後見、世のかためにて、行く末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかり褪せ果てんとはおぼしてんや”後世でこれほど褪せ果てるとはお思いもなさらなかったであろう、といいつつ、ただ今、まのあたりにしている状況を描き出す。南門や金堂は焼け落ちたり倒れ伏したりし、 
無量壽院ばかりは昔のあととして残り、一丈六尺の仏六体が尊い御姿で並びたっておられるが、名あるひとの額や扉書きだけがあざやかに見えるのも感無量で、再建のめどもたたない、今残っている法華堂もいつまでもつものやら?あたり一帯が、いまや荒れ果てて見る影もないことを克明に書き綴るのである。
 さらに、これ程有名な名残をとどめるほどではない場所では、よくわからない礎だけが残る所もあるが、その由緒さえはっきり知る人もない。

 こうして、それだから”よろずに見ざらん世=(いまだ未知の未来)まで思いおきてんこそ=(考えて定めておくなどすることは)はかないだけである。と述べてこの段は閉じられる。

 これを読んで、不意にわたしの胸に浮かだのは、松尾芭蕉の
  むざんやな、兜の下の きりぎりす 
という1句。
「奥の細道」の旅の途中、加賀、小松の多田神社に詣で、宝物として保存されていた源氏の武将斎藤別当実盛の兜を見てうたった芭蕉の句として有名だが、実盛は平安朝の末期、道長一族繁栄の時代から約100年有余のちの1183年源平の合戦で、源氏の勝利を見ることなく討死した老将である。むざんという言葉に無限の意味がこめられ、そこに登場するのが秋の虫キリギリスなのである。キリギリス実はコオロギという解説だが、それはどうでもよく、ただかそけく美しい鳴き声が、兜の下からそこはかとなく聴こえる、という見事な発想。年来佛教思想の影響が色濃くあるにしても、日本人独特の無常観は、江戸の俳人の心にも連綿と生きていると思わずにいられない。たとえ勇者の死であるにしても、なんともむざんなことに変わりはないのである。 


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