【初心者目線】世界観共有システムとしての講談連続読み

1月5日から全11日(前夜祭+A日程5日間/B日程5日間)に渡って行われた講談師・神田松之丞による「慶安太平記」。奇跡的にB日程のチケットがとれたので、家の仕事や子守をもりもりこなしつつ、おくさんから許しを請いながら通いつめました。

「慶安太平記」は実在の人物、由井正雪による幕府転覆を巡る全19席・合計10時間超の一大ドラマ。これを毎日通って一気に聴く。例えるなら、ライブでドラマを1クール見るような感じですね。
まだ、あまり整理がついていませんが、とにかくものすごい体験だったように思います。
何がすごかったかって、途中からすごさを感じなくなっていったことが、何よりもすごかったんですよね。

僕が知る落語や講談の名人芸って、「言葉と表情と身振り手振りだけで、30分〜1時間くらいのストーリーを観客の脳に投影して再生させるもの」。わかりやすく言えば、数十分の間、視覚的には着物を着たおじさまの姿を見ているだけなのに、高座が終わって記憶に残されるのは、江戸の情景だったりするわけだから、これはもうおもしろいったらありゃしないわけですよ。

ただし、その都度、演目の世界に足を踏み入れて、下地になる主要な登場人物や風景を脳内構築した上でストーリーを追っていくわけで、これがそれなりに脳に負担がかかる。しかもそれが観客の意思を離れて、半強制的に脳が「発動した状態」に持って行かれるわけなので、演者に力があればあるほど、観客はその世界に引き込まれ、脳はフル稼働する(させられる)ことになる。

というわけで、「名演」と言われる高座を目の当たりにした観客たちが「すごいモノを観た」という感動とともに、「引き込まれた」「映画何本分も観た後みたいな疲れがあった」みたいな感想を口にするのは、おそらくこういうことなんじゃないかなと、勝手に理解していました。

ところがですよ。今回の「慶安太平記」には、これまで出会ってきた「名演(まだまだにわか演芸ファンなので数は多くないですよ汗)」とはちょっと違う部分があるように思えた。それに気がついたのは3日目の途中から4日目くらいだっただろうか。第14話の「鉄誠道人」などはとくに顕著だった。坊主をだまして衆人環視の元で火あぶりにするという、えげつないシーン。紛れもなく気迫のこもった「名演」だったと思う。人々の欲望と、追い詰められた坊主のせめぎ合い、燃えさかる劫火がありありと浮かび、そこにいるような臨場感さえあった。あの空間は、間違えなく神田松之丞の話芸によって支配されていたと思います。初心者ながらに。

でも、終わった後、興奮こそしていても、ぜんぜん疲れていない。
これは……どういうことなんだろう?

なんて、ちょっと考えてみた結果、その答えらしきモノがふっとわかった気がしました。
これって、数日にわたって「同じ世界観を共有しながら演芸を鑑賞する」という体験が今までなかったからこその違和感なんじゃないだろうか、と。

いわゆる「引き込む芸」の境界はとうに突破してしまって、僕は(あるいは僕らは)、いつの間にか神田松之丞が支配する「慶安太平記」の世界の住人にされていたのだ。そこにある空気や情景、登場人物たちが脳内に常駐している状態が構築されれいる。だから、脳に負担がかからずに、ごく自然に、すっと物語の世界奥深くに入っていける。これこそが講談の「連続読み」の機能とすごさなのか!と勝手に膝を打ったんですよね。

こういうこと、あんまり偉そうに言葉にすると怒る人いそうだけど、あくまで僕と同じ初心者に向けて書いていくならば、最近人気の「落語 THE MOVIE」というテレビ番組のよさって、この話と通底するのかなって。

あれは落語家の語りに当て振りで演技をして落語をMOVIE化するコンテンツで、表向きは「落語を知らない人にその面白さを知ってもらう」が主題にあるように思えるわけだけど、あの番組を数本観ると落語の世界観を形成する基本的な構成パーツ=長屋とか、ご隠居とか、職人とか、はっつあん、クマさんたちが脳内にインストールされるので、MOVIEじゃない生の落語を鑑賞しても、たぶん、噺を処理する脳に余裕が生まれると。そうなってくると、落語をより楽しめるという、なかなか偉大な仕組みがある!とも解釈できるわけです。

というわけで、演芸って「共有の芸」と言う側面があるのかも!?なんて気づかされた今回の連続読み。絶たれて久しいこの上演スタイルが、講談だけじゃなくて、落語の圓朝モノなんかでも盛んになるといいなあ……なんて願いを込めつつ、今日のところは筆を置きます。

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