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金魚を買いに

外はしとしと雨が降っていた。
熱帯魚を取り扱う「水魚」の店内には、客の姿はない。


外が薄暗くなってきた。そろそろ店を閉めようかと思っていた7時過ぎに、その女はふらりと店に入ってきた。
いや戸が開く音が聞こえなかったので、水守はその客が入って来たのに気が付かなかった。


背後に人の気配を感じ、振り返った水守は腰を抜かしそうになった。
「あ、いらっしゃいませ。」
女はすらりとした立ち姿で、白黒模様のワンピースを身に着け、金魚の水槽を熱心にのぞき込んでいる。


「金魚ですか?その和金はエサ用ですから、鑑賞にはこちらなどはいかがです?」と、値段の高いランチュウや変わりものの金魚の水槽を示して見せた。


女は顔をこちらに向けた。
三十は過ぎているだろうが、目がキラキラと輝き美女の範疇に入るだろう。
水守はどぎまぎして、濡れた手をタオルで拭いた。
「いいの、これを下さいな。うちの子供たちのご飯にちょうどいいわ。20匹ね。」


水守は思わず顔をほころばせた。
うちの子供たちなんて、よほど熱帯魚好きなのだろう。
「何を飼ってらっしゃるのですか?」と笑顔を作って水守は問うた。
女は恬然と微笑んだ。


「大したものじゃありませんわ。」もう一度微笑みかけてから、向きを変えると、アロワナの大きな水槽を見つめた。
「このアロワナは素晴らしいわね。」と水守をはぐらかすように言って、アロワナに微笑みかけた。


いつもおとなしいアロワナが素早く尾びれを動かした。
アロワナの無表情の顔が、笑っているように見えた。


酸素を吹き込んで膨らませた和金の袋を大切そうに抱えると、女は代金を支払って出て行った。


水守はその後姿を見送ると、ゾクリとして鳥肌が立つのを覚えた。
そういえばあの人、瞬きした?
何考えてるんだ。あのワンピースのせいかな。鱗みたいな柄だったじゃないか。
若干熱っぽいようだ。風邪をひいたのかもしれない。


レジに女から受け取った紙幣を収めるときに、紙幣がぬめるような感触がした。だがその感触を振り払うようにレジを閉め、早々に二階に上がっていった。

翌朝、葉月の怒鳴り声にたたき起こされた。
妻の葉月は友達との飲み会に行っていて、昨夜遅く帰って来のだが、もう早朝から動き出している。


「なんだよ、朝っぱらから」
水守は半分意識が飛んでいたが、辛うじて受け答えした。


「何よこれ?レジにおもちゃのお札なんかつっこんで 何考えているのさ!」
見ると固まってカチカチになった泥まみれのおもちゃの札が、葉月の指の間で、ぎごちなく身をくねらせて揺れている。


「はあ?なんだよ、これ?」
「なんだじゃないのよ、あんた、昨日の夕方和金を売ったわよね、その代金じゃないの?狐に化かされたの?もう ボケたの?どっちよ! 」
妻の機嫌は当分収まりそうもない。


ほうほうの体で服を着替えて財布と携帯、カギをポケットに突っ込んでそっと家を抜け出した。

朝飯前にたたき起こされたので、腹ペコだ。今日は店が休みだからゆっくり寝ていられると思ったのに。


仕方なく駅前のカフェへ向かって歩き出した。
それにしても確かにあれは千円札だった。おもちゃなんかじゃない。俺はそこまで ボケていない。


だが札を手にした時のぬめりとした感触を思い出して、また鳥肌が立った。
まさかね。
なんだよ、まさかって。あれは化け物だったのか?
考えながら歩いていると駅前を通り過ぎて駅の反対側に出てしまった。


こちら側には大型スーパーの 一階に商売がたきの熱帯魚屋、楽園堂があった。
まだ開店前だが、店主が箒を使って吸殻を掃き集めている。
店主に気づかれないように商店街へ入って、まだシャッターの降りている店の前を足早に通り過ぎ、路地へ入った。

この先には金魚神社がある。
金魚神社とは通称で、筑紫神社という立派な名前がある。今の宮司が大きな池に錦鯉を飼っているのだが、近所ではなぜか金魚神社で通っているのだ。
先々代の宮司が金魚を飼っていたらしく、金魚神社の名前で通っているんだそうだ。


宮司は水守の幼馴染で、この境内は幼いころ、彼らの遊び場だった。
神社の裏手に回ると、池のそばで何か思案に暮れている宮司を見つけた。
おい、と声をかけると、塚本宮司は水守に手を振った。


「どうかしたのか?」
「いやそれが不思議なんだ。鯉の数が減ってるんだ。」
「鯉泥棒かい?」
「いや、最近、賽銭泥棒が多いだろ。だからうちもやられる前にセンサーをつけたんだ。夜中でもだれかが境内に人が入ればベルが鳴るんだ。昼間は切ってあるが夜にはセットしているから、泥棒が来ればすぐわかる。」
「故障してるんだろ。」
「いや調べたがちゃんと作動する。どうなってるんだろう?」
「不思議だね。警察に言ったのかい?」
「うん、昨日来てくれたが、セットし忘れたんでしょう、ってにべもなかったよ。」
「だろうなあ、鯉ではなかなか動いてくれないよなあ。」
「だろう?そりゃうちの鯉はそんな高価なやつじゃないんだけど。だが不思議なことに高そうなのはみな残っているんだよ。」
「なんだそりゃ?」水守は笑った。
「だろ?変だよね。いなくなったのは、地味な黒い普通の鯉や小さな金魚ばかりさ。」
「食ったんじゃねえのか?最近…。」そう言って、自分の言葉に水守はクックっくと笑ったが、最後は悲鳴になりそうなので、声を飲み込んだ。
またぞわっとした。


「まさか。俺はそんな悪食か?」宮司は笑った。
「お前、朝飯まだなら食っていけや。」と宮司は庫裏の方へ水守を誘った。

塩鮭の焼いたのに 味噌汁、麦飯、漬物、サラダがテーブルに並ぶ。
それをありがたくかき込みながら、昨日の話をしてみた。
宮司はケラケラと笑って、
「お前こそぼけたんじゃねえのか?」
と宮田は漬物をパリパリ言わせて、にやにやしている。
かみさんがいないからって、昼間っから飲んでたんじゃねえの?と散々だ。


たしかにあのお客は美女だったから舞い上がってたかもしんないけどな、と昨日の夕方を思い出してみる。
いやいやそんなはずはない。
しかしその言葉を飲み込んで、朝飯の礼を言うと、また商店街の方へ戻っていった。

翌週になって、また天気が崩れてきたある夕暮れ。
そろそろ店じまいをと思っていると、小学生くらいの少女が店に入ってきた。


金魚模様の浴衣を着て赤い帯を締めている。
おや、今日は花火かお祭りだったかな?と思っていると
「金魚をちょうだい。」とその子が行った。
「金魚かい?どれがいい?お嬢ちゃんが飼うの?」と水守が訪ねると、
少女は首を振って答えず、
「この小さなのを10匹ちょうだい。」と言った。


また和金だ、ぞくりとしながら、10匹 すくい出して袋に入れ、酸素を入れて膨らませると
「400円だよ。」と言い、おもちゃの札かどうか確かめなくちゃな、と身構えた。
予想に反して、少女は手提げ袋から百円、五十円玉、十円玉を取り混ぜて400円を支払った。


水守はしげしげと小銭を眺めてみたが、変わったところはなく、少女は金魚の入ったを抱えて店を出て行った。
そして後になって、この少女も瞬きをしなかったのを思い出して、水守はまたぞくりとした。

翌日は昨夕と打って変わって朝から晴れ渡った。
定休日でもあるし、店内を掃除しようと和金の入った容器を外へ出した。


店内を掃除していると、自治会長から電話がかかってきた。
「水守さん、お宅の金魚は大丈夫かい?」と自治会長はだしぬけに言うので、水守は驚いた。


「どうしたんですか?」
「いやね、楽園堂さんのところから金魚が盗まれちまったらしいんだよ。
あんたのところも同業だし、念のためにお知らせしておこうと思ってね。
いやそれが高い奴じゃないんだ。和金て言ったかね、熱帯魚の餌にする小さい赤いやつなんだが、100匹ちかくいたのが、みな盗まれたっていうんだよ。
被害は知れてるさ。でもなんで高いのは持ってかなかったんだろうね。」


また和金か、水守はぞくりとしたが
「うちは」と少し言いよどむと「今のところは被害はないですね。でも気を付けます。知らせてもらってありがとうございます。」
まさか鱗のワンピースだの金魚柄の浴衣だのって笑われるだけだしな、電話を切って何気なく外の和金の容器を見ると、
「やられた!」
50匹は入っていたのが空になっていた。

向かいの八百屋の店主に声をかけると、
先ほど、母親と娘のような親子連れが、和金の容器のそばにしゃがみこんで中を覗いていたという。
「どんな感じの親子でした?」と尋ねたが、答えは聞かずともわかっていた。
あの二人に違いなかった。
だがその後、水守はその親子を見かけることはなかった。


金魚神社の鯉泥棒には後日談がある。
元々手先の器用な宮司の宮田は、鯉泥棒除けを工夫したらしい。
池のそばに電線を張り巡らし、夜間は電流を流していたら、ある晩、電線がショートして、朝確認すると焦げた布切れが絡まっていたということだ。


電話でその顛末を聞いた水守はまたぞくりとして
「鱗みたいな白黒柄の洋服地と、金魚柄の浴衣地だろう?」と言うと、
宮司が息を飲む音が受話器の向こうから伝わってきた。
「もうこの街には現れないんじゃないかな。あの化け物たちは。」そう言って水守は電話を切った。
宮田にはちゃんと話しておかなくてはな。


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