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市民文庫・書評『危険社会~~新しい近代への道』ウルリヒ・ベック著 東廉、伊藤美登里訳 「ボランティア情報VOL190 2012年3月号」(とちぎボランティアネットワーク編)所収

『危険社会~~新しい近代への道』ウルリヒ・ベック著 東廉、伊藤美登里訳
定価(本体5000円+税)

評者 白崎一裕

この訳書のカバー解説にあるように、本書はチェルノブイリ原発事故がおきた1986年にドイツで刊行された。未曾有の原発事故の衝撃をうけたことに対する思想的応答の書として、難解な専門書にもかかわらず大ベストセラーとなったものである。

「危険社会」とは何か?危険という言葉は、ドイツ語でRisiko 、英語でriskと言い表される。すでにカタカナ語になっている言葉でいえば、「リスク社会」ということになる。しかし、危険という言葉には、Gefahr(独語)danger(英語)というものもある。この二つの言葉のニュアンスの違いが、本書の問題提起の中心をなしている。後者の「危険」は、人間の営みとは無縁な自然現象のようなところから生じてくるものをいう。これに対して前者の「危険(リスク)」は、人間自身の活動によって引き起こされるものを表現している。すなわち、人間がつくりだした社会そのもののありかたが「リスク社会」を生み出しているということなのだ。人間は、自由と幸福を求めて自然を改造して豊かな近代産業社会をつくりあげてきた。しかし、その自由と幸福の代償として逆説的に様々な危険(リスク)をその社会内部に作り出してきてしまった。近代は、豊かさを追求する第一段階の近代化から、その豊かな社会の行き詰まりを反省する第二段階の「反省的近代化」の時代になったというのが著者ベックの基本認識だ。

私たちが遭遇している3・11福島第一原子力発電所事故は、まさに危険社会のただなかにあることを思い知らせた。この危険(リスク)は、あらゆる空間・時間を超越して襲い掛かってくる。放射線被害は、地域・世代・国境を超えて専門家たちの意見の分かれるグレーな不安をもたらした。危険社会は、その対策を、近代システムの中で解決することを不可能にしている。ベックが朝日新聞のインタビュー(2011年5月13日)で述べているように、保険制度は19世紀に確立された近代システムのリスクに対応するものだったが、原発事故はその保険のリスクをはるかに超えてしまった。真理を追究すると考えられてきた科学は、政治党派のエゴの回し者となり、近代議会政党政治は機能不全に陥り有効な政策を打ち出せなくなっている。

この危険社会を超えていく道はあるのか?これは、いままさに私たちののど元に突き付けられている問いでもある。ベックは、市民層が既成の政治や科学の枠組みの外から、それらの権力を監視し・分散させる相互討議型の多様な行動をおこすことに期待を寄せている。評者は、ベックの意見に同意しながらも彼の不足分を付け加えたい。それは、産業社会の成長神話から脱却して、政治・科学などの中央集中的なありかたを小さな単位に分散させて、市民が身近な暮らしの中から生きるための統治機構を再生することだと思う。危険(リスク)をコントロール可能なサイズに転換させてこそ危険社会を超える道がみえてくるのだ。

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