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愛媛県 松山地裁補助参加人発言(白崎)なぜ、私は、扶桑社版・歴史・公民教科書採択に反対するのか?意見陳述書栃木県大田原市在住 白崎一裕

以下の文書は、教科書裁判先輩格のえひめ教科書裁判の口頭弁論において松山地裁にて陳述説明したものである。これも2008年だが、現在でも参考になると考え、ここに再録する。

なぜ、私は、扶桑社版・歴史・公民教科書採択に反対するのか?
意見陳述書
栃木県大田原市在住 白崎一裕

なぜ、私は、「扶桑社版・歴史・公民教科書採択に反対するのか?」その理由について述べたい。
もちろん、その教科書の内容について問題があるのは当然だが、これまでも、その内容については多くの議論がされていることと思われるので、今回は、その制度的・教育行政的観点からの問題点を指摘したいと思う。

まず、そもそも、教育とは何か?教科書とは何か?という議論が必要になるだろう。それを議論する前に、以下の憲法・国際法・国際条約などの文言をみていただきたい。

①、 日本国憲法第98条 2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
②、 世界人権宣言 第26条 1、すべて人は、教育を受ける権利(the right to education)を有する。――
              2、教育は人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国または人種若しくは宗教集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を推進するものでなければならない。
③ 国際人権規約・社会権規約 第13条第1項(古山明男訳)
      この規約の締約国は、すべての者の「教育への権利」を認める。
      第三項
      ――公の機関によって設置された学校以外の学校を児童のために選択する自由を有することを尊重することを約束する。
      第四項
      ――この条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び運営する自由を妨げるものと解してはならない。 
④ 子どもの権利条約
第3条 (最善の利益の確保)
1、 子どもに関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局または立法機関のいずれによって行われるものであっても、子どもの最善の利益が主として考慮されるものとする。
   第29条 (教育の目的)
     子どもの権利条約 第29条1項
1 締約国は、子どもの教育が次のことを指向すべきことに同意する。
(a) 子どもの人格、才能、ならびに、精神的および身体的能力をその可能最大限度まで発達させること。
(b) 人権および基本的自由ならびに国際連合憲章にうたう原則に対する尊重を発達させること。
(c) 子どもの父母、子ども自身の文化的アイデンティティ、言語および価値、子どもの居住国および出身国の国民的価値観、ならびに自己の文明と異なる文明に対する尊重を発達させること。
(d) 理解、平和、寛容、および両性の平等に関する精神、ならびに、すべての人民、民族的、国民的、宗教的集団、および先住民の間の友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために子どもを準備させること。
(e) 自然環境に対する尊重を発達させること

2 この条又は前条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。―――

⑤ 「ILO・ユネスコの教員の地位に関する勧告」(1966年)

3 教育は、その最初の学年から、人権および基本的自由に対する深い尊敬をうえつけることを目的とすると同時に、人間個性の全面的発達および共同社会の精神的、道徳的、社会的、文化的ならびに経済的な発展を目的とするものでなければならない。これらの諸価値の範囲の中でもっとも重要なものは、教育が平和の為に貢献をすることおよびすべての国民の間の、そして人種的、宗教的集団相互の間の理解と寛容と友情にたいして貢献することである。

61 教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。

⑥ オランダ王国憲法(松本和志訳)
オランダ憲法 第23条 【教育】
1、 教育は政府の、終わることのない仕事である。
2、教育をおこなうことは、自由である。ただし、役所はそれを監督し、やりかたを法律で定める教育に関しては、教育者の能力や倫理を法律にしたがって調べる。
3、公的な教育に関するきまりは、みなそれぞれの宗教や信条を尊重しながら、法律で定める(以下、略)

⑦ デンマーク憲法第76条【教育を受ける権利】
学齢期にあるすべての子どもは、小学校において無料で教育を受ける権利を有する。自ら子どもないし被保護者のため一般小学校の標準に等しい教育を受けさせてやれる
親ないし保護者は、その子どもないし被保護者を公立学校において教育させなくてもよい。

⑧ デンマーク「フリースコーレおよび私立の基礎学校に関する法律」第9条
「公立の小中学校で一般に要求される内容に見合った教育を行うことなど、フリースコーレの全般的な活動を監査することは、学校へ通う生徒の親達が行う。親の会は、いかなる方法で監査を行うべきかについて自ら決定を下す。」

以上、長く引用してきたが、これらの、国際法や教育先進国といわれる国々の憲法などに盛り込まれてきたもののなかに、教育とは何か?教科書とは何か?についての回答が盛り込まれていると考える。

まず、その前提となるのが、憲法98条だ、現行憲法では、国際法と条約のどちらが優位か、また、人権関係の国際法と国内法のどちらが優位かがあいまいではあるが、「誠実に遵守」とその文言にある以上、最低、国際機関による人権関連の国際法は国内法への適用をすべきであろう。すくなくとも、国際人権規約の教育機関の設置の自由を国内法に適用しないと矛盾が生じてくる。また、ここにある、国際法規は、たんなる美辞麗句ではない。それは、過去の宗教戦争にはじまり、様々な民族紛争および20世紀における二度の世界大戦の貴重な教訓を、いわば、自然法的正義として、表現したものである。
 その「法の発展」をわれわれは重く受け止めなければならない。

さて、これらの国際法の趣旨を、おおまかに要約してみると、
教育への権利・教育機関の設置の自由・教育の自由・子どもの学習権・人権尊重とその義務・教育の自治・教師の自治などが含まれている。

そもそも、教育活動とは、個別的(パーソナル)な人間関係に基づくものである。そして、教師の活動は、個別の草の根知識人として、子どもの親や保護者の委託を受けての文化・芸術活動のようなものといっても良いだろう。そういう意味では、教師の活動は、個別的で、自由なものでなければならないし、それを支えるのは、地域の親や住民ということになる。教育活動は、子ども・親(地域住民)・教師の三角形の構図の中での議論の中ですすめられていくべきだ。また、それが、世界の教育改革の成功した姿の流れである。たとえば、国際学力調査(PISA)の結果で一位で注目されているフィンランドは、中央集権的な教育をやめて、地方や個々の学校への「分権」をはたし、学校査察などをやめていった。同じように、教育の分権・学校設置の自由・教師の自治を認めている国々の代表が、オランダ・デンマーク・アメリカのオレゴン州だ。たとえば、デンマークでは、生徒の数が20人集まり、国語、算数、英語の最低限を教えていれば、補助金つきの学校をつくることができる。届出制のゆるやかなものなので、様々なタイプの学校をつくることができて、教員免許を持っていない人も教員になれる。
そこでのデンマーク教育省のスタンスは、「市民のつくりたい教育を援助します」というサポーターの役割に徹していることだ。(このスタンスは、日本の教育委員会のあるべきモデルのひとつだろう)

こういう教育先進国では、教科書が存在しない。あるいは、存在しても、教師や個々の学校の選択の自由であり、あくまでも、教材の一部という存在である。しかしながら、日本では、これらの国際法や教育改革の動きとは逆行するような、中央集権的「教科書検定制度」があり、その地域での教科書選択は、地域住民や保護者、教員の意見が反映しない構造となっている密室性の強い「教育委員会制度」の中で決められていく。(この教育委員会や教師の身分を規定しているのが、「学校教育法」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(「地教行法」)だ。したがって、この二つの法律を国際法の観点から廃止ないしは改正しなければならない)

扶桑社の教科書採択の教育行政的な観点での問題点の本質は、上記の、「中央集権的な官僚主権」と「住民自治の無視」と「子どもの学習権の侵害」そして「教師の人格権の侵害」にあるといえる。
上記のことは、過去の「家永教科書裁判」の過程ででてきた、1970年(昭和45年)の「東京地裁・杉本判決」でも部分的に触れられてきているところである。しかし、その後、この問題が十分発展・吟味されてきたとはいえない。
 教科書に限定して考えると、教科書選択あるいはその使用の有無を決定する「教師の自治」や教育内容としての教科書の「親や地域住民の評価」などの制度的保障がされないままになっている。
 これを、保障するための第一歩は、当然、「教科書検定制度」の廃止に求められる。

この意見書では、上記の原則を確認し、その意味から、扶桑社版教科書採択の無効性を訴えるものである。

また、最後に内容的なことで補足するが、教育とはパーソナルなものという観点から、教育の目的を「法定化」することに反対ではあるが、国際人権法の発展の観点からいえば、市民教養として、「人権の尊重・擁護と他者の人権の尊重・擁護の義務」ということのみが「公教育」の法定内容として求められるだろう。その観点からいっても、扶桑社版教科書は、国家=公という思想に基づいており、内容が国際人権法から逸脱していることを指摘しておきたい。

以上

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