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現代の死生学と倫理

ここ数年、日本においては宗教(あるいはスピリチュアリ ティ)と生命倫理をめぐる議論が盛んになりつつある。

それは、われわれの死生観が大きく揺 らいでいるからであろう。

従来の日本では、末期がん患者の死の「受容」と死生観をめぐって 、日常生活のなかに死が位置づけられ、死は身近な存在だった。

しかし、現在はどうであろう。ほとんど の死が病院に隔離され、人々が身近に死を意識することがない時代だ。
資料によれば、1951年には、病院での 死亡率は9.1%、自宅は82.5%で日本8割以上は自宅で死を迎えていた。

2010年は病院77.9%,自宅 12.6%で約8割が医療機関で死亡しているとのこと。
あらゆるメディアで死が報道されても、実際に死に立ち会う経験はほとんど ない。

こうした現代日本において、人々が実際どのように死に向き合い、死んでいくのか、そこで は死生観はどのような意味を持つのか、死の「受容」と終末期の死生観の意味、そこ で生ずる問題について、死の問題に直面せざるをえない末期がん患者の事例は他人ごとではない。明日のわが身かもしれない。

過去の日本では少なくても死のタブーは、少なかったであろう。
親族と死別した大多数の人々は、以前の社会 で受容されていた悲嘆や追悼、服喪の儀礼や指針があり、愛するものを亡くした嘆きや悲しみと折 り合いのつけ方、すなわち社会的支援があった。

社会や共同体の儀礼によって守られた「自分の死」が、医療のうちに閉じ込められ、服喪の廃止により共同体そのもののあり様も失っていった。

「科学が発達す ればするほど、私たちはますます死の現実を恐れ、認めようとしなくなった」という。「死の過程はより孤 独に、より機械的に、より非人間的になった」のだ。

こうした近代における死の意味を認めようとすることから、日本でも、死生学が興隆しつつあり、 ホスピス、脳死臓器移植・葬式などひと頃より、死への関心が高まっているとしているという見方がある。

映画「お葬式」(1984年)や80年代の脳死の問題が、 映画や物語,歌などでの墓や葬式・納棺など今までにない形で死が扱われ関心を集めた。

しかし具体的に自分の問題として死が現実化したらどうであろう。
2010年に行われた朝日新聞の世論調査では「もし,あなたが治る見込みのない末期がんだとわかっ たら、そのことを知らせてほしいと思いますか、知らせてほしくないと思いますか」という質問に「知 らせてほしい」78%「知らせてほしくない」18%、
「自分が治る見込みのない病気で余命が限られている ことがわかった場合、余命を知らせてほしいと思いますか。知らせてほしくないと思いますか」には,「知 らせてほしい」76%「知らせてほしくない」20%であるのに対して「もし、あなたの家族が,末期がん だとわかったら,そのことを本人に知らせたいと思いますか。知らせたくないと思いますか」という質問 には「知らせたい」が40%「知らせたくない」48%、がんに限らず「家族が治る見込みのない病気で余 命が限られていることがわかった場合,本人に余命を知らせたいと思いますか。知らせたくないと思いま すか」には「知らせたい」37%「知らせたくない」52%であった。

自分は死の可能性については知りたいが、家族には知らせたくない。自らの死についてふだん家族の間 で話し合ったり、意志疎通はしておらず、死に臨んでもむしろ家族間で死の問題を語ることを避け、タ ブー化しておきたいという気持ちを持つ人々が多いのも現実なのだ。

現代は神のいない時代と呼ばれ、非常に宗教観が薄れた世の中であるが反面日本人は古来から、「死んだ人はどこにも行っておらず、ここにいるのだ。家族とともに生活をしていて食事もするし、家族の幸福を共に見つめていてくれている。という考えの人も多い。
それが仏壇での祈りの意味なのであろう。
「生き残った人たちはただ生きているだけでなく、死者たちとともに生きている。そのような語りから、誰もが伝えるべき死生観や倫理観を持つような風潮を助長するのが今の日本では大事ではなかろうか。

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