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お吟様

松竹で映画化された今東光原作お吟様、主演女優は有馬稲子、監督は田中絹代という異色の組み合わせであった。映画のストーリーは以下コピーによる。
天正十五年。豊臣秀吉の茶頭千利休の娘、吟は、六年間一筋に慕い続けてきたキリシタン大名高山右近をむかえて喜びにもえた。しかし、妻のある右近はキリシタンの教えを破ってまで、吟の思いを受け入れることは出来なかった。折も折、父利休は石田三成から吟の縁談を持ち帰った。相手は太閤茶湯七人衆の一人、廻船問屋万代屋宗安である。気の進まぬ吟は、必死の思いで右近にその思慕を打ちあけたが、右近は苦しい思いで万代屋へ嫁ぐよう吟にすすめるのだった。二年後、万代屋へ嫁いだ吟は、いまだ右近への思慕をたちきれず、そんな吟にあきたらぬ宗安は、放蕩三昧の生活だった。ある日、宗安が招いた茶会の席上、吟は右近に会った。同じ席上、秀吉は吟の美貌に激しく心を動かされた。これを知った三成と宗安は右近をおとし入れ、吟を秀吉の側女に差し出しておのれ達の勢力を拡大しようとはかった。偽の手紙で南宗寺に呼び寄せられた右近と吟は、住持のはからいである茶屋に逃げこみ、はじめてお互の愛を告白し、ひしと抱き合うのだった。今は妻もない右近との再会を約して万代屋へ帰った吟は、暇をとって利休のもとへ戻った。一方、三成は吟と右近に不義密通の咎があると秀吉に申し立て右近を追放した。そして利休には、吟を秀吉の侍女にするようにとせまるのだった。利休は激しくはねつけたが、結局は大阪城にむかえられることになった。黄金の茶室で秀吉から求愛をうけた吟は、ただ自分の魂はさるお方のもの、と答えるだけだった。一両日中に再考するよう言いわたされて帰った吟を、利休は命にかけても右近のもとに送ろうとした。一家揃っての別離の宴。すでに家の周囲は何者かに包囲されていた。逃れるすべのない吟は、白無垢の死装束に身を正し、別れの和歌を残して死場所である離れ座敷へと姿を消した。

茶道の開祖、千利休には利休七哲(りきゅうしちてつ)」と呼ばれる弟子たちがいた。

「利休七哲」には、高山右近、蒲生氏郷、細川忠興、柴山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部と名を連ね、すべて武士で大名茶人です。

そして、「ジュスト高山右近」の洗礼名を持つ高山右近、同じく「レオン蒲生氏郷」はキリシタン大名として知られ、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部にもキリシタン説があります。また、細川忠興はキリシタンのガラシャ夫人を妻に持ち、実母や息子も受洗しています。

周囲にキリシタン信者が多い中、利休自身何故入信しなかったのかという疑問がある。多少この時代の文化やキリスト教史に関心があれば誰もが思う疑問であろう。

時の大名や富裕な商人がキリシタンに興味を持っても入信しなかったように最大の理由は女性問題にあったのだろう。1586年のイエズス会日本年報によると豊臣秀吉も「多数の妻をもつことを許さぬ禁令をゆるくすれば、我もまたキリシタンになるであろう」と言ったいうが利休自身は禅宗に帰依しながらもキリスト教には深い関心を寄せていた。複雑な家族関係の縁に縛られていなければ入信したのであろう。

利休は過ってザビエルが堺の日比谷了慶(佳)亭で行ったミサを目撃している。その時ミサの儀式である聖杯の飲み回しを体験しているのだ。
ミサの中で司祭はパンを裂いて一部をぶどう酒に浸してこれを飲食し、さらにその聖体を信者に配り、信者もこの聖体拝領を行い、その時に聖杯に入ったぶどう酒をまわし飲みします。これが聖杯の回し飲みである。ミサはパンとぶどう酒の入った聖杯(カリス)をまわし飲みするところです。

キリストの血を飲むことに似せた聖杯の回し飲みこそ信者としての連帯感や一体感を目的としたのだろう。それに似て濃い茶を回し飲みの形式にしたのは利休だとされています。

堺の茶道についてはキリシタン大名である高山右近を外しては語ることができない。
先ず右近にとって千利休とは茶道の師であり親友である。茶道は信仰を高めるうえで最適であると考えた右近はその道に励んだ 。

 茶道の主要な精神的要素である和敬静寂、一座建立などは、人間本来の心のありようや心から客を大切にするという人間性の基本に基づいておりそれは師利休の侘茶に繋がるものであった。

心の中の澱(おり)のような不安の感情を解放し、精神が浄化される茶の湯三昧の日々を右近は送ったのでしょう。

ですから右近にとって、茶室は神と自己の霊魂が交わる、深い祈りの場所であり茶室での祈りは  右近独特の「確固たる形ある祈り」であり、「日常を断つ祈り」であり、常に神と一体であるための静慮であり、信仰を深め継続するために右近独自の信仰スタイルであった。

茶道の師利休は禅宗の僧侶でもあることから利休からの禅的な 要素を多く取り入れたものであったのだろう。右近は日常の生活感を断ち切り、神と語り合うことが出来る確固たる自分の祈りの形を持っていた人であったと語るのは右近の研究者からの示唆である。

現在  行われている茶道とは全く異なるもので、霊性に満ちた右近の霊操の場所であったことは 、加賀の前田家家臣であった時代、彼の信仰は、この形ある断つ祈りで深められ、継続されていったといいます。

右近はイエズス  会の「霊操」を身に付けた人であり、霊操は禅宗の摂心(接心)と似ており、何時も神と同行二人の祈りのうちに生きていったのだ。

そして、このような神聖な場所での右近のおもてなしは、多くの人に感動を与えたのです。
茶道は当時の武士階級の人々では必要な社交術であり、右近も茶道 を通して、友を得るとともに、茶道の場を、福音宣教の契機として大いに活用し、有力な武将 一般庶民を受洗に導きました。 

利休の娘のお吟様もそのような経緯の後受洗に導かれたのでしょう。
そして右近と共に信仰を深めていくうちいつしか信仰の先達から愛情の人へと変わっていったと思われます。
しかし右近には妻がいます。カソリックでは離婚は認められていません。右近は秀吉の近習石田三成の進めた結婚を勧め、お吟様は右近の勧めにより結婚に踏み切ったのです。

その後の経過は映画のシナリオの通りです。好色な秀吉は側室として娘お吟様を差し出すことを父親利休に迫ります。

高山右近へ終生殉じたい思うお吟様は父親利休が娘を差し出すのを拒否したことを知り、ならばと白刃を胸に貫き果てます。クリスチャンは自殺は出来ません。それを超える深い愛に殉じた戦国の悲劇でした。

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