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江戸を支えたもの

幕末期における徳川幕府の急激な威信低下と権威の失墜はどのように進んだのであろうか。またそれには反作用として権力を持たない大衆の側から力の台頭というものもあったのだろう。この二つの力の拮抗というものを考察して明治維新の原動力を自分なりに考察してみたい。

徳川家康が将軍として築いた徳川幕府もしくは徳川家にとって人的資源の頂点は将軍である。その継承においては血統主義が厳守されたが将軍の長男 でなければ, 最も血筋の近い近親者が継承者となった。

 しかし, この原則で選ばれた将軍は初期には3代家光, 5代綱吉,8代吉宗と個性的で力強い将軍を出したが、

代を重ねるにつれて, その資質は次第に劣化し,後半にはいると, ついに成人としてもまともに生活する能力のない人物が次々に将軍の座につく事態にたちいたった。

9代将軍家重は, 生来病弱で言語不明瞭のため, その言葉は側用人の大岡忠光のほか誰も聞き取ることができなかった。 その15年の在位中は酒色にふけってすごした。

11代家斉は50年間という最長の在位を誇ったが、その在位の初めは松平定信による寛政の改革, 最後は大塩平八郎の乱という幕政の危機のさなかであったが政治に興味を示すことなく逸楽にふけり, 側女40人, 産ませた子供55人という異常な生活をおくった。 

この時代、幕藩体制が傾きかけたのも将軍職という権威の象徴が希薄観を生んだのも一つの原因であったのだろう。

 海外からの脅威も切迫度を増してきたのにも関わらず、 文化文政という江戸文化の爛熟期を迎えていたが肝心の13代将軍家定は30歳すぎても庭のガチョウを追い回すような奇癖があり, アメリカ総領事ハリスが大統領の国書を手渡すために謁見したときも,自分の頭を左肩の後ろへそらし右足を踏み鳴ら
す行動を 3 , 4回繰返したとハリスによって目撃され書き残されている。

インド、中国を経てヨーロッパ列強の植民地化の波が打ち寄せ, 日本に大きな危機が迫っているこの時にすら幕府の最高権力者がこの有様である。 

将軍の劣化が幕府の衰退に拍車をかけたことは間違いない。
当初, 家康をはじめ、それを補佐する幕閣が知恵を出し合いあれだけ豊にあった各種の資源も260年の間に、あるものは頭打ちとなり, またあるものは次第にその効力を弱めたり劣化していったのだ。 そしてそれにともない江戸時代もそのものも衰退していったのである。

徳川幕藩体制の始まる前後から徳川を支えた筆頭に世にいう四天王がいる。その一人、遠州の土着豪族の子として家康の近習から仕えた井伊直政がいる。

井伊直政直孝親子が家康とのかかわりの中で徳川幕藩体制が曲りなりに260年余も続いたのは彼らなりの存在感とか役割があったからと思うのです。

譜代筆頭の位置についた井伊家が江戸時代を通じて譜代の大名の中心としてどんな意識でどんな役割を果たして来たのだろうか。(ちなみに井伊直政が駿河田中城に出入りしていた時奉公に出ていた焼津の中里村の豪農の娘に手を付け産ませたのが庶子ながら井伊家35万石をついだのが初代大老井伊直孝であるが、奉公に上がっていて直孝を生んだのが我が先祖筋にあたる女性である)

織田信長が本能寺の変で倒れてから必死の伊賀越えにも家康のそばに仕えながら無事に岡崎に連れ戻している。以降関ヶ原の合戦で天下をとるまでの17年間, 天下取りの戦いの中心にいたのは四天王の中でも最若年の井伊直政だった。 

家康にとっては, 直政こそ年齢的にも体力知力ともに充実したもっとも頼り
になる存在だったのである。こうして家康は, 甲州武田軍団から帰属した最強
の武装集団をそっくり直政にあずけその象徴であった赤備えを井伊家のみ許した。(我が先祖はその武田軍団の一人であり駿河の家康への元に馳せたとき、武士をやめ焼津で海鮮問屋になったという。)

赤備えは, 鎧, 兜, 刀, 槍, 旗, 幟とあらゆる装備を赤一色で染め抜くもので, 戦場においては圧倒的な威圧感と存在感を示した。(武田の赤備えは武田家と縁の深かった信州真田家にも継承され両軍は大阪の役で激突している。)
井伊の赤備えの効果は関ヶ原の合戦において遺憾なく発揮された。


大阪の役には伏線があり、その前の関ヶ原の合戦では, 後に二代将軍となる秀忠が榊原康政, 大久保忠隣, 本多政信らとともに徳川本隊3万を率いて中山道を進み関ヶ原に到着する予定になっていたが, 真田昌幸の巧妙な抵抗にあって上田城に釘付けにされて合戦に間にあわず, 家康の怒りをかい, 目通りさえゆるされなかった。

事実, このため, 東軍は徳川軍の主力を欠き、外様大名を中心とした戦力で戦わざるを得なかったのである。 しかしこの中で井伊直政の赤備えが、先陣を勤めるはずの外様の福島正則の軍団を押しのけて先駆けし 目覚ましい働きを
示して、辛うじて譜代の面目を保った。 後に描かれた関ヶ原合戦絵巻でも, 赤い幟の林立する軍団はあざやかな存在感を示している。

関ヶ原の合戦で目覚ましい活躍を見せた井伊直政は, 譜代家臣の中でさらに大きな功績を認められ, 高崎12万石から近江国の佐和山城18万石へと栄転した。 

佐和山城は, 西軍の主将石田三成の居城であったが琵琶湖の東岸に臨み京・大坂へ通じる中山道が通り, さらに福井・金沢から来た東北道が交わる軍事的に最も重要な場所であった。 

さらに琵琶湖は若狭湾から京大坂への物資の搬入のほか、その舟運は彦根を
中心とした近畿圏の物流の大動脈だったのである。 このため, このあたりは, 古来, 信長の安土城, 秀吉の長浜城と天下をねらう武将が押さえるべき扇の要のような場所だったのである。


家康にとっては, 関ヶ原の合戦の後まだ豊臣秀頼が大坂城にいて、さらに秀吉恩顧の大名たちが西国に多数残っている情勢からみて全国支配の戦略上佐和山城の軍事的な価値はきわめて大きかった。そこで最強の軍団を率いる井伊直政をここにおいたのだ。

しかし, 佐和山城は中世的な山城であったため, すぐ近く, さらに琵琶湖に接して彦根城を築くことになった。 直政は, 関ヶ原の合戦において, 東軍の中央を突破して逃走をはかった島津軍を追撃したため鉄砲傷を受けた。そこから破傷風を併発し、それがもとで2年後に死亡した。

 このため, 城普請はそのあとを継いだ駿河在の出身で庶子である直孝の手によって行われた。 (この間の消息は拙書『井伊直政、直孝親子物語』を参照されたい。)

普請は家康の直接の指示によって, 江戸から普請奉行が 3人派遣されただけでなく, 周辺7カ国, 12名の大名が動員される天下普請によって完成した。
彦根城がいかに重視されたかを物語る。

今、創建当時の天守閣が優美な姿を見せているが, 城郭の大きさに比べて天守閣はいささか小振りである。 最終的には預かり5万石を加え35万石になったとはいえ, 創建当時は18万石だったので, その家格に合わせて三層と小振りになったという。 

かつては内堀の一画に大きな米蔵が17棟も建っていた。 ここに幕府から預かった5万俵という大量の米を備蓄していたという。 いつの日かいくさを想定してそのために蓄えたものであろう。


幕府から見て, 西南外様諸勢力に対する前線基地と考えられていたことがよくわかる。
しかし, 家康がもっとも頼りにしていた直政は42歳で倒れた。 だが,、2代目直孝も直政の志をつぎ, 武勇, 政治的判断力ともにすぐれ, 大坂夏の陣で大活躍し, 家康から 「日本の一番武辺」 と褒められ,、その後の井伊家の性格を決定
づけた。(庶子でありながら次男の直孝は家康の一声で家督を継いだが本来家臣といえども家康が他家の相続に介入したのは、他人の嫁が好きな好色の家康が田中城にいた我が祖の側女に手を付け産ませた子が直孝であるという説も根強い)

 直孝はさらに幕閣の中でも重鎮として2代, 3代, 4代将軍に仕え、井伊家に与えられた譜代筆頭の役割をまっとうしその責任感とプライドを井伊家のみならず彦根藩の中にしっかりと根付かせたのである。

先鋒は我なり

幕府の中でも井伊家の立場はゆるぎないものがあり260年の間, 5人の藩主が大老の職についている。 これは大老職全体の半数を占めている。 また多くの譜代大名が何度も転封を繰返したのに対し, 井伊家は幕末まで彦根を動くことがなかった。

幕府が井伊家に求めたものは, 一口で言えば将軍家を守るために身も心も捧げ盾になることであった。
井伊家もその決意を代々守り伝えた。直孝がその子直澄に与えた遺書には, 

「ひたすらご奉公せよ,、今後逆臣ありて誅戮 (ちゅうりく) を仰せ付けられたときには, 早速打ち平らげる心がけを忘れるべからず」と書き残している。

5代将軍綱吉が将軍職を継いだとき, 御三家,老中などが集まった席で, 由比正雪の乱が話題になった。 そのとき水戸光圀 (みつくに) が,
「もしそうしたことがあれば, 自分が先鋒となって討つであろう」と発言すると, 当時の彦根藩主井伊直興は色をなして 「先鋒は我なり, 敢て他人に譲らず, 東照公御遺誡あり」 と反論した。

こうして 「天下の先手」 をつとめる井伊家のプライドは代々受け継がれたのである。
ここからが本題である。こうした譜代の責任感は, 江戸幕府という組織の中では, どんな意味をもっていたのだろうか。

心に留め置くことはこれは、あくまでも家康個人, あるいは徳川家に対するものであり, 幕府やこの国に対するものではなかったということである。

今川に従属していた井伊家は常に今川より当主の命を狙われ、家の断絶もしかかったほどである。直政を育てた女城主直虎が必死の覚悟で直政を連れ遠州遠江に出張っていた家康の陣に拝謁したことから井伊家の幸運が始まった。

家康は幼少のころから人質として織田、今川で暮らした自身の境遇を鑑み直政に自分を重ねたという。即小姓に採用し常に身近においた。

家康に大きな恩義を感じた直政は身を挺して徳川家につくす決意にみなぎっていた。その様な忠義心とか家康からの重用されるプライドがいつのまにか
その内容が変質し, その譜代筆頭の家が占めるべき地位への執着へと変わっていった。 

このポジションはだれにも譲らないというこだわりに過ぎなくなっていたのである。組織に対してではなく, 創業者への忠誠心, あるいは地位へのこだわりである。 この陥りやすい偏狭さは, 組織論として看過できないものである。

時は過ぎ幕末となった。幕末期の彦根藩の不幸は琵琶湖に黒船が現われなかったことである。このことは彦根藩をして内外の緊迫した空気を読めなくしていたことであった。

家康が, 外様藩を日本の外周部へ追いやり,親藩譜代を内陸の当時の枢要の地に配置したことが, 幕末にはちょうど手袋の裏返しのように完全に裏目に出たと言えるかも知れない。

ここにも歴史の壮大なパラドックス(背理)を見ることができる。
中心を失った彦根藩は, このころから迷走を続ける。 第2次長州征伐では, 大老井伊直弼の首をとられた屈辱をはらすべく, 先陣を受け持って, 新しい藩主のもと自慢の赤備えのりりしい武装で出陣した。

ところが, これが長州の奇兵隊の前に簡単に敗退してしまう。 譜代筆頭の誇り高い赤備えの軍隊が, 高杉晋作が庶民をかき集めて作り上げた急ごしらえの奇兵隊に歯が立たなかった。 最新鋭のライフル銃で武装した奇兵隊に対し, 彦根藩は戦国時代さながらに鎧兜の武者が法螺貝を吹き鳴らして進んだのだった。 

戦いのあとには井伊隊がうち捨てた赤備えの鎧兜などが散乱し,無慚な光景を呈していた。 こうして, 彦根藩のプライドは完全に打ち砕かれてしまった。 

長州戦以降、藩の主導権は尊王派が握り, 幕府からは知行を10万石削られ, ついに鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争では新政府軍に味方して, 幕府軍を敵にまわして戦うところまで行ってしまうのである。

譜代筆頭として誇り高い彦根藩井伊家のたどった260年を見てきたが、この藩が徳川を支えた譜代の典型的な姿を示しており, この中に幕府が成長し, そして衰退する要因がよく見てとれるのだ。
260年の安泰を誇った徳川幕藩体制も長い成長があったからの反作用としての衰退という歴史の大原則をまぬかれることはできなかったということである。

次回は何の権力も持たず士農工商の身分制度の最下位の身分でありながら来るべき時代の先読みにより資産や知識を増やし、ついには時代をを動かすようになった商人高田屋嘉兵平にスポットをあて時代を読み解いていこう。

参考文献:組織論で読み解く
江 戸 時 代 (2)
遠 田 雄 志 / 小 川 格


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