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雪の中の歩兵銃 ー八甲田山雪中行軍秘話ー

明治三十五年 一月二十八日
青森県 八甲田山中
弘前歩兵第三十一連隊・雪中行軍隊

「真っ白、真っ白で前が見えませんっ!」
 歩兵第三十一連隊八甲田山雪中行軍隊長、福島大尉の耳に、嚮導の叫び声が地吹雪に混じって、途切れ途切れに聞こえていた。

 彼らの前進する意志が鈍っていることを察した福島は、風に負けじと声を張り上げる。
「だからと言ってこんなところで停止したら、死ぬだけだっ! 進めっ!」

 先頭に立って嚮導を務めるのは、地元の猟師たちで軍人ではないから、福島の命令にも反応は鈍かった。抗議するように振り返った表情は吹雪にかき消されて見えないが、恨めしいものであるのは容易に想像がついた。しかし、福島は心を鬼にして叫ぶ。
「前進せよっ!」
 福島の語気に嚮導も覚悟を決めたか、牛乳の中に落とされたかのような真っ白な景色に視線を戻した。
 一歩、また一歩と、三十八名の行軍隊は吹きすさぶ雪の中を進んでゆく。

冬の八甲田山中 秋田しげと 撮影(スキーではなく、行軍隊と同じ徒歩で撮影しています)

「中隊長殿(部隊は小隊編成だが、福島は第二中隊長なのでそう呼ばれていた)、積雪は腰の高さを越えていますっ!」
「岩木山の行軍を思い出せ。泳げ、雪の中を泳ぐんだ」
「はいっ!」

 行軍隊は、踏み出した足を半ば雪に預け、前かがみになって両手両足を使い、平泳ぎのように這いつくばって前進を続ける。
「もうすぐ五連隊の目的地、田代温泉だ。充分休養をとらせるから頑張れ!」
 福島の励ます声に、わずかばかり前進速度が上がる。

 青森歩兵第五連隊の雪中行軍隊が、自分たちとは反対の道順を通って二十五日には、田代温泉に到着しているはずである。

 福島の率いる三十一連隊雪中行軍隊は三十八名。それに比べ五連隊は二百十名の大人数であるから、宿営設備の規模も大きく立派に整えられ、田代温泉も宴会の後のようになっているのではないかと想像していた。
 福島は、酒でも残しておいてくれぬかと、五連隊雪中行軍隊隊長、神成大尉の人懐っこそうな表情を思いながら、かじかんだ頬に僅かな笑みを浮かべた。

 しかしそのころ、五連隊の二百十名はわずか十数名に人数を減らし、残りは八甲田山中で死せる氷像に姿を変えていたことを、福島は知らない。

「寒さは骨に徹して避けることが出来ない」
 極寒の中、福島は思わず、メモに弱音を書いた。

福島大尉直筆 「寒さは骨に……」部分(1行目)

 その時、また嚮導が騒ぎ出した。
「どうした」
 福島が先頭に行くと、皆、無言で、一点に向けて指差している。
 目を凝らすと、三十年式歩兵銃が雪の中に突き刺してある。それを見て、まずわいた感情は、軍人らしい怒り、であった。
「誰だっ! こんなところに銃を置き去りにした奴はっ! けしからん」
 この大雪の中、三十一連隊より前にこの道を通ったのは、五連隊の雪中行軍隊しかいない。
 福島大尉は、怒りを含んだ足運びで銃に近付き、手に取ったその時。

「た・す・け・て……」

 風の音に混じって、かすかに、聞こえた。しかも足元から、である。雪をひとかき、ふたかきしてよけると、そこには真っ白な顔をした、一人の兵士がいた。外套の奥から見える襟章の数字は『5』。
「五連隊のっ、おい、しっかりしろっ、軍医、軍医っ!」
 近寄ってきた軍医が兵士の頬を摩擦し、飲み水を与えると、わずかに眼を開いた。
「きゅ、救助隊です、か?」
「いや、我々は三十一連隊の雪中行軍隊だ」
「連れて行って、ください……」
「待っていろ。軍医、起こしてやれ」

 しかし、軍医がいくら引っ張っても起き上がらない。不思議に思って兵士の周囲にある雪をどけると、その下半身は凍りつき、雪にへばりついていた。両足首は、まるで氷をかち割ったように、ちぎれている。
 軍医は無言で首を横に振り、福島大尉は立ち尽くした。近寄ろうとする部下を、手で押しとどめる。

 福島は膝を折って腰を落とすと、兵士の顔を覗き込むようにして言った。
「救援隊は、青森を出発して、もうすぐここに」
「嘘です」
 凍死寸前の人間の言葉と思えない、明瞭さで言った。

「それはもう、何度も聞きました。そう言った人間は、みんな、私を見捨てて行った。あなたがたもきっと」
 福島は答える。
「そうなるかもしれん。しかし、貴様が守り続けてきた、その銃は持って行ってやろう」
「ふ・ふ・ふ」
「何がおかしい?」
「ほかの兵士は、みんな、銃も、背嚢も焼きました。暖を取るために。しかし私だけは焼かなかった。軍人、ですから。しかし、今では、後悔して、います…… それを燃やしていれば、私は、きっと、きっと……」

 福島は兵士の銃を手に取ると、言った。
「我々は、行く。貴様は、軍人の中の軍人だ」
「やめて、クダサイ…… 軍なんて、こんなもんなんです。それと、先に行くのは、私のほうですよ」

 福島は背を向け、銃をもって、隊列の先頭に戻り、
「誰にも、言うな」
 そう、呟くように、言った。

※※※

同年 春
弘前歩兵第三十一連隊・駐屯地内

 福島は、三十年式歩兵銃を持って、まだ雪が残る練兵場の隅にある井戸の前で一人佇んでいた。時間は深夜。他に将兵はいない。
「すまない。しかたなかった。解ってくれ」
 手に持った銃に、しきりに話しかける。

 その銃には、木製の銃底がついている。発見された他の銃では、それは全て焼かれていた。この銃の主は自分を温めるより、銃を完全な形で維持することを望んでいた何よりの証だと福島は思った。

 すると、その銃は彼が命に代えても守りたかった、ということになる。

 その銃を連隊に提出すれば、調査後、分解され、ただのガラクタになる。
 それよりも完全な形を保ったまま、この井戸の底に沈める方が良い、と福島は判断したのだった。
 ガチャリ、と槓桿を引いて、静かに戻す。新品同様に手入れが行き届いている。

 そして、井戸に銃をかざすと、ゆっくり手を離した。

 ドポン、という、深い沼に落ちたかのような音を井戸の壁に反響させ、銃は水底に沈んでゆく。

 井戸の水面には、敬礼をする福島の姿が、わずかに差し込む月明かりにユラユラと揺れて、映っていた。

※※※

-三年後-
明治三十八年 一月二十八日
日露戦争・黒溝台会戦
福島中隊陣地

「みんな、大丈夫か? 手袋の中で手を動かせ。凍傷に注意しろ」
「自分たちは大丈夫です。中隊長殿は平気なんですか?」
「今の気温は?」
「現在、れっ零下三十度です」
 部下の将校が歯の根が合わぬ震え声で答える。
「まだそんなものか」
「えっ……」

 福島の返事に隊員たちが絶句しているところに、号令がかかった。
「福島隊、前へ!」
「行くぞぉっ!」

 福島隊の所属する第八師団は、五倍の兵力を持つロシア軍の奇襲に遭い、既に兵力は半減、全滅の危機に瀕していた。最後の予備兵力が福島中隊である。そして、それも投入されようとしていた。
 昨日までの戦闘で、黒溝台の陣地を敵に奪われ、今日こそ奪取しなければならない。

 前進した福島中隊が最前線の塹壕に入ると、そこは、味方兵士の屍の山だった。
「きゅ救援隊ですか?」
 死体かと思っていた兵士が、息も絶え絶えに聞いた。
「いや、我々は増援隊だ。撤退はしない。銃が撃てるなら、突入に加わるんだ」
 そう言って兵士の足元を見ると、銃創を受けてひどく出血している。
「いや、貴様はここで待っておれ」

そう言い残すと福島は塹壕から顔を出し、敵情を一通り見て抜刀、そして叫んだ。
「全軍、突撃ぃー、進めっ!」
 三十年式歩兵銃の先に煌めく、林のように乱立する無数の銃剣が一斉に突き進む。しかし。
「ぐあっ!」
「小隊長殿、戦死っ!」
「第二分隊長、代理で指揮を執るっ」
「第二分隊長殿、戦死ぃっ!」
 敵の陣地から吹雪のように降り注ぐ機関銃の弾丸は、部下たちの命をいともたやすく奪っていた。

「ぐうっっ!」
 福島も呻く。数十メートルも進まぬうちに、弾丸が足を貫通する。次いで左腕、脇腹、右胸。
 日本軍の将校は日本刀を持っており、指揮官であることが悟られやすい。敵はそれを狙って銃撃を集中しているのだ。

 満身創痍の福島は、仰向けに倒れ、ぼんやりした眼を空に向ける。痛みは無かったが視界が狭まり、そして寒かった。

 そのとき、自分を覗き込む兵士と目が合った。
「今日の日を、憶えていますか?」
「貴様、何を言ってるんだ…… そんなことより、傷の手当てを、たのむ……」
 その兵士は、首を横に振り、
「一月、二十八日」と、言った。

「そうか…… 八甲田の」
「私の、命日ですよ。そして、あなたの命日になる。私の銃はどうしました?」
「井戸に」
「焼いてほしかった。今、あなたが持っている、その刀を捨てれば、命が助かるとしたら、どうしますか」
「俺は軍人だ。もちろん…… いや、捨てるさ」
「やはり、あなたとは、気が合うと思っていましたよ」
 兵士は、真っ白い頬に、まるで絵の具で描いたような真っ赤な口元を上げて笑う。

「こんどこそ、連れて行ってもらいますよ」

 福島の脳裏に何度も、兵士の言葉が反響していたが、すぐに全身が悪寒に包まれ、視界は急速に暗転していった。


 青森歩兵第五連隊・雪中行軍隊が遭難した明治三十五年、一月二十五日に記録した零下四十一度は、日本最低気温の日として、現在も破られていない。


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