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まち歩き東京目黒・渋谷編〜聖地巡礼をやってみたい〜

長渕剛の「桜」という歌がある。これにはいくつかの地名が登場する。目黒警察署・山手通り・鎗ヶ崎・代官山・鉢山交番・渋谷・目黒川など。

僕はこの歌が好きで、桜の季節、歌の中で長渕剛が歩いた道を辿ってきた。歌の聖地巡礼である。

現代の聖地巡礼は、映画(小津安二郎『東京物語』の尾道)、アニメ(『ガールズ&パンツァー』の大洗)、ドラマ(『あまちゃん』の南三陸)、小説(志賀直哉『城崎にて』の城崎)など、様々なジャンルのものが、観光・まち歩きに利用され楽しまれている。◯◯ゆかりの地とか、◯◯のロケ地とかというところは、今風(?)に言い換えると皆、聖地になるのではなかろうか。多分、今の時代に『ローマの休日』が映画化されたらオードリーヘップバーンがアイスクリームを食べたスペイン広場も聖地と言われているかもしれない。ビートルズのアルバム『Abbey Road』の横断歩道も、前川清の『長崎は今日も雨だった』の丸山やオランダ坂も聖地だ。神戸ハーバーランドにはエルヴィスプレスリーの像が置いてあって、そこが本人と何の縁もゆかりもない所であるにもかかわらずエルヴィスの聖地としてファンを集めている。そういう現象まで起こっている。

聖地巡礼という言葉は汎用性と感染力が凄まじく、これはまち歩き好きにとっても見逃せない事態となった。こうなったら聖地巡礼とやらが一体どういうエンターテイメント性を持っているのか自身の身をもって確かめねばならない。その上で、良いとこや足りないとこを主観的であれ知ることが出来ればと思った。

これまでの聖地巡礼の事例を見ていると、要所もそんなに多くないし、お寺を見て、お店に入って、写真を撮って、と淡々とこなしていくだけで、聖地巡礼を語るにはどこか物足りなさを感じていた。

聖地巡礼とはいえ、常に同じことを考えているわけではないはずなので、巡礼中も他のお楽しみ要素があった方が良い。それは本来の聖地巡礼にもあった、というか旅の道中で巡礼者が自ら発見するものでもあると思う。そこに着目し、今回は街を巡りながら僕の見たこと考えたことを含め、なるべく多くを記録しエンターテイメントするためのヒントを探りたい。

そして聖地巡礼をやってみて、普段のまち歩きとの相性や、何が聖地巡礼を面白くさせるのか確認してみたい。

そうして長渕剛の「桜」聖地巡礼に臨んだのだが、結論から言うと今回は、いろんな楽しみの要素が盛り込まれすぎて、おもちゃ箱のようなまち歩きになってしまった。最初に、聖地巡礼というテーマで始めたのだが、結局はブラナカオに飲み込まれてしまったので、聖地巡礼を軸にした話と、東京の都市成立に関する話の二つに分けることにした。

今回は、長渕剛の「桜」に登場する場所を渡り歩き、僕が発見したことや巡礼中考えたことを素直に書いていきたい。全く関係ないことも書いているが、それも含めて巡礼に必要な要素として残したい。これからの内容は、まち歩きをしながら考えたことのみで、それ以外の話は後々報告する。

いずれ来る本物の聖地巡礼のためにも、私は歩かねばならない。

最初に、聖地巡礼をするにあたって、彼がどの道を歩いたのか歌詞を見ながら推定し、順路を決める。著作権上、ここに全歌詞を転載することは控えたいが、一部引用し事前に確認しておきたい。

歌の世界の長渕剛は、バイクのスピード違反で切符を切られ、警官に悪態をついたために目黒警察署でこっぴどく絞られる。そこから、女とデートの約束でもしていたのか、渋谷方面へ向かう。行程は、目黒警察署前の山手通りを渋谷方面に北上し、駒沢通りから鎗ヶ崎へと続く坂を登る。そして、代官山へ入り、蔦屋書店の裏の道を抜け、鉢山交番前に至る。鉢山交番を右に曲がり、渋谷に入る。そして渋谷のど真ん中で
「一人突っ立ったまんま 待っても待ってもまだ来ぬお前待ちくたびれてる」

「目黒川の桜並木 狂い咲きした夜桜よ」
夜に目黒川で花見に行っている。

これは、理想の男を羨みながら自分らしく生きなければと思い直し、でも未だ半端な気持ちでいる男の春の(おそらく)失恋ソングである。

(GoogleMap)

まずは、歌の始まりにある目黒警察署から行くことにした。

本来なら僕もスピード違反で捕まって、お巡りさんに叱られるべきかと思ったが、それは追体験ではなくただの再現なので、警察署は外観するだけにした。

警察署の前は山手通りが走っている。品川から板橋まで、東京23区西側を通る幹線道路だ。この道を渋谷方面へ北上する。向こうに中目黒駅が見える。

この日だけなのか、山手通りでかなりの数、交通機動隊とすれ違った。スピード違反で警官に悪態をつく輩がいるせいでパトロールが強化されたのだろうか。そうだとしたらあの男も罪づくりなやつである。

中目黒の駅にたどり着く手前で、駒沢通りに折れる。少し進むと、橋がかかっている。ここで目黒川を横切る。桜が満開で、屋台や、お店の屋外販売もしていて、にぎやかだった。ワインやシャンパングラスを片手に並木道を歩く若者が多かった。今の長渕剛にはちょっと似合わん雰囲気のところだ。

目黒川の橋を渡ると、この先は坂道になる。

目黒・渋谷一帯は割と坂が多い印象がある。東京は、多摩川水系と荒川水系に挟まれた武蔵野台地の上にある。この台地は関東ローム層という堆積層が地表面を覆っている。関東ローム層は、粘土層と礫層が互層していて、礫層部分から地下水が湧出し、台地上に中小河川を形成している。目黒川や、渋谷川がそれにあたる。さらにこれらの中小河川が時間をかけて武蔵野台地を削り取り、谷を形成する。目黒・渋谷に坂が多い理由は、このような中小河川による台地の侵食によって凸凹が形成されたことに起因すると考えられる。こうした侵食により谷ができ、一つの地形面が細かく別れていくことを開析(かいせき)という。今僕は開析された台地を降りたり登ったりしているのだ。土地の起伏を見ると知的好奇心がくすぐられてしまう。

鎗ヶ崎を目指して坂道を歩く。左手には東横線が走っていた。渋谷・横浜間の都市形成を語る上で、東急東横線の存在は欠かせない。この話は後々。

駒沢通りのてっぺんに鎗ヶ崎の交差点があった。そこを左に曲がり、代官山に入る。さすがファッションタウンと呼ばれるだけあって、街ゆく人は皆華々しく魅力的だ。着飾るのではなく、自分に合う洋服・ヘアスタイルを選ぶセンスが優れているような気がした。多少気取った感じがするものの、街全体におしとやかでスタイリッシュな雰囲気が漂う。代官山では、人々の身だしなみも重要な景観構成要素であるように感じた。歌の世界の長渕剛もこの辺りを歩いたんだろうが、その時はどんな格好をしていたんだろう。バイクに乗っていたから、黒のライダーズジャケットでも着ていたんだろうか。そういえば切符切られた後バイクはどうしたんだろう。歌ではバイクに乗って渋谷まで行ったとは言っていないし、歩いて行ったとも言わなかった。そのあと、「100円パーキングに車を停めた」とかいう歌詞も出てくるし、時系列で考えるとどうなってるのかちょっとわからない。でも、バイクに乗っていたらわざわざこんなところを通らないだろうなあ。歌の雰囲気から、ふらふらと歩いて行ったと想像する。

猿楽町というところに入ると、かつて和風建築だったであろう住宅や、お店が点々とあった。どこも改装されて、モダンなデザインになっているが、昔の痕跡が見られるような気がした。道を歩いているとどこからかデミグラスソースっぽい匂いがした。匂いの元は小さなハンバーガー屋さんだった。お昼時だしここで休憩して行くかと思い、お店のドアに手をかけたところで、お金を持っていたかどうか気になった。財布を開けると小銭しか入っていなかった。近くにATMも無いようなので仕方ないが今回は諦めるしかない。早くここを抜けて繁華街へ行こう。この辺りは今では人気の住宅街だけど、明治以前は人家の少ない農村だったという話は後々。

蔦屋書店の裏を通り過ぎて、そのまままっすぐ進むと鉢山交番にたどり着いた。鉢山交番は代官山の雰囲気とは程遠い、どこにでもありそうなモルタル壁の交番だった。ここを右に曲がれば、下り坂で渋谷の中心地へ行ける。鉢山交番は下町と山の手とを区切る境界のように見える。この坂を下ってから、路面にガムを吐き捨てた跡が増えた。

そこから道が入り組んでいてどうやって渋谷の交差点まで向かったのかわからない。道が狭くて何度か車にはねられそうになった。気がついたら道玄坂に出た。ちょっと遠回りをしているかもしれない。長渕剛が歌う「渋谷のど真ん中」とは駅前のスクランブル交差点のところだろう。約束の場所は具体的には一体どこなのだろう。ハチ公前で待ち合わせなのか、スターバックスのところか、大盛堂の前かはわからない。

「渋谷のど真ん中 一人突っ立ったまんま 待っても待ってもまだ来ぬ お前待ちくたびれてる」
でも、人が多すぎてどこに誰がいるかなんてよくわからない。

「携帯電話の音が気になる だけど電源切る度胸もないなんて」
もしかしたら、相手も約束の場所に来て彼を探していたのかもしれない。どこにいるの、と。デートのお断りの電話とは限らないのに、なぜ確認しなかったのか。そもそも、彼女からの電話ではないかもしれないけど、だとしたらあの携帯電話の音は一体何だったのか。

「約束の時間諦めきれない一人ぼっちの俺がいる」
もし、僕の考えが当たっていたら彼に起こったすれ違いの悲劇を嘆かずにはいられない。まあ、何の約束かも、相手が女か男かも、彼は一言も言ってないんだけども。深夜の牛丼屋に二人で行くくらいだから、どっちかというと男かもしれない。そういう設定ではあまり考える気はないけど。

昼前に目黒警察署を出発して1時半には渋谷に到着したので、少し距離はあるけど十分歩けるコースだった。

歌の世界の長渕剛は、もし約束通り相手が「渋谷のど真ん中」に来てくれたら、そのあとどこに行くつもりだったんだろうか。ショッピング、映画館、美術館、プラネタリウム、カフェ、ゲームセンター、風俗、ライブハウスと、渋谷には何でもあってキリがない。要は何が見どころなのかよくわからない街だ。お店はたくさんあるけど、渋谷で一番の見所は何かと言われると、交差点の人混みだろう。最早、人混みを見に来た人によって人混みが作られている状態だ。交差点を歩くと一度の青信号で、数百人規模でスマホやカメラを片手に歩く人の姿が見られる。皆全くぶつからずに対岸まで渡りきることができる。ぶっつけ本番の集団行動にもかかわらずだ。ビルの二階のスターバックスから眺めていると、上を向いている人、下を向いている人様々いるが、歩みを止めることなく見事に交差する。「歩きスマホはやめよう」という標語がバカバカしく感じられるほどに。

なぜ渋谷の街がこんなに人が集まる街に発展したのか、その決定的な理由はまるっと説明できないけど、地質からヒントを得て考えてみたので、その話は後々。

渋谷で一生分、人を見たあと東横線で中目黒に戻って、桜並木を見てきた。

ここも人が多い。じっと立ち止まっていられないので、桜を見てうっとりする暇はほとんどない。ここでは、桜を見ることよりも、桜を見に来て何をするかということの方が大事なのかもしれない。この辺りには洒落たカフェ・レストランがある。近隣のお店にとっては、ある意味目黒川の桜並木は客寄せパンダのように見えなくもない。お客さんのほうは花見というきっかけから何か違うものを欲しがっているような気がする。ある意味花見は口実で、目的は他にあるように見えなくもない。おじさんは桜を利用して酒を飲もうとする。青年は桜を利用してデートに誘う。みんなの期待は花自体にはなく、それをきっかけとして他にそれぞれの欲するものを求める。都会に来て初めて「何かのきっかけ」として機能する桜を見た。

この日の月も「確かに丸かった」


以上、聖地巡礼というか、歌に登場した場所を訪ね歩き、感想を述べただけなのだが、結局歌の内容や、人の気持ちにどれだけ想いを馳せることができたかは、いまいち不明であった。聖地巡礼とはどういうものかと、機会を得てはあらゆる現場で思索に耽ってみてはいたのだが、今回もまだその面白さを引き出しきれていないのが分かった。それより、歩きながら街の地形や景観に気を取られすぎて、何度も本題を忘れてしまった。

今回振り返って思ったことは、聖地巡礼をする前提として、アニメなり映画なり歌なり、プラットフォームがしっかりしていないものは面白みにかけるかもしれない。面白いものでもじきにフェードアウトしていくと思った。本来の宗教的な行動の聖地巡礼はプラットフォームの影響力が強烈で千年経っても続いている。これには地域・時代を超えた普遍性がある。アニメ・映画・歌・小説にどれだけその持久力があるか、今はまだ分からない。完全に無くなってしまわなくても、どこかで誰かが細々と楽しんでいるかもしれないが。

まちづくりの方法の一つでアニメや映画などの聖地巡礼を採っているところがあるが、これが未だ成功だとか失敗だとか評価すらされていないのは、今儲かっているものの、いずれ儲からなくなる水物だとみんな感じているからではないだろうか。地域ぐるみで聖地巡礼を応援するのは難しそうだ。

今回、長渕剛が通った道を同じようにたどってみて思ったのは、聖地巡礼をしたからといって、彼や彼の歌に一層信仰心を抱くようにはならなかった。それよりも、まち歩きをして他にいろいろと発見、体験をする楽しみが大きい。ただ、彼の見た景色を同じように見たのだという実感だけは得た。エリザベス女王の玉座に座って「おおー」と女王様気分を味わうように、実際に同じ行為をして、気分を追体験することはできた。

田舎から出てきて、ハイカラな東京人を見て「すげえなぁ」と羨むのは彼も僕も同じなのではないかな。


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