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過去の自分は自分ではない

2017年から2018年、平成29年から平成30年、酉年から戌年に変わった。あらかじめ予想していたものの、除夜の鐘が鳴ると同時に、干支を知る全ての人々の常識が酉から戌へ一瞬にして切り替わることにやはり感心せずにはいられない。まだ酉年が続いていると本気で信じている人はおそらくこの世に一人もいないだろう。どうしてだろうか。今が酉年であろうと戌年であろうと、そんなことどうでも良いではないか?2018年が酉年であったとして誰が困るというのか?日本だけでも1万人くらいは「まだ酉年は終わってない!」と宣言する人がいてもいいんじゃないか。それがどういうわけか、全会一致で戌年だ。法は犯されるが、こういう常識に背く人はいない。「当たり前」の盤石さを思い知らされる。

年の変わり目には、一年を振り返ったり、次の一年をどんな年にするか、どんなことをしたいか表明する人がいる。僕はそういうことはあまりしないのだけど、身近にそんな人が多いと、同様に反省と抱負までは述べずとも「自分はいま何をしたいのだろうか?」などと嫌でも考える。自分自身について考えを巡らすためには、自分以外の誰かの存在が不可欠だ。

〈わたし〉と言えるのは、〈わたし〉という語の使用がすでに、〈わたし〉だけをさすのではないという事態の理解を前提にしている。
(中略)〈わたし〉は、〈わたしだけ〉ということの否定を含んではじめて使用可能になる語なのである。
                      (鷲田清一『聴くことの力』)

そう考えると、僕が何をするか(したいか)ということも僕だけによる決断ではあり得ず、それはあくまで僕以外の誰かの存在によって形作られた輪郭でしかない。でもその決定権は誰かによるのではなく、僕自身が自分の意思で決めることに違いはない。行動を起こすのは僕以外にはあり得ない。ただ、それも他者の存在がなければ為し得ないことだ。僕の思考や行動はおろか肉体と精神までもが誰かの存在なしに語ることはできない。この世に完全なるオリジナリティなど無い。それを知りながら、自分は何をしたいか、誰にとってのどういう存在なのか、自分は何者なのか模索することを辞めない。とても興味深いことだと思う。

この正月休みに小学校の同窓会があった。同窓会も自分を知る機会だ。仲間たちは今どこに住み、どんな仕事に就き、誰と付き合い、何を目指しているか。そして同じ屋根の下で過ごした日々を振り返り語る。あの時はあんなことがあった、こんなことを思っていた、そんなことあったっけ、よくそんなことまで覚えてるな、お前もな。

ーーみんな全然変わらんね。

同窓会では質問責めにされるし、僕もみんなのことを知りたい。僕らはお互いのことを知りたがる。教師になったひと、医者になったひと、地元に帰ってきたひと、結婚したひと。みんな会わない間に各々こんなにもたくさんの経験を積んできたということを思うと胸が熱くなる。同時にそれは鏡のように、あるいはこだまのように自分自身に対する気づきとして反映、反響する。彼らが歩んだ日常は、僕には実現し得なかった世界ではあるが、それは彼らの僕に対する意識としても同様であろう、と自分を振り返りおもう。結局、僕らは仲間の現状を知ることで自分の存在を再確認しようとしたのではないかと思う。

かつて同類だった者たちが少しずつ別々の方向を向き、環境を変え、価値観を変え、生き方を変えていく。ある時、いつのまにか開ききってしまったお互いのギャップに、ショックとも言えないが感動的とも言えないような、妙に感慨深いものを感じる。それは勝手知ったる彼/彼女らの歩んだ道(人生)に思い馳せることだ。そこには酉年から戌年に変わるような時間の変化ではなく、地続きの時間の経過というものが彼らの容姿、口調、所作からリアリスティックに受け止められる。人生を語るには若すぎるが、それでもかなり遠くまで来たものだなあと思う。高校、大学、職場と、その過程においては同類の人々との暮らしにあるから、大きなギャップは感じない。だが細胞は時間をかけながらも確実に分裂し、無意識のうちに別の人間(人格)に生まれかわっていく。

昔を懐かしむのは、もうかつての自分ではないことを自覚している証しだ。過去の自分は自分でありながら自分ではない。

そのくせ、最後にこう言うーーー

みんな全然変わらんね。


違和感だ。僕はそういう違和感をちまちま拾い歩くのが好きなんだろう。今年も一年そうやって矛盾や葛藤に生きるんだろう。取り留めのないことに真剣になりたいのかもしれないなあ。

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