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第一話 1933年シュツッツガルト

 時は1933年、ドイツのシュツッツガルトでの出来事。

そのライカは新品でショーウィンドウの真ん中に飾られていた。ハードケースの赤い箱の上に置かれたライカは、気高く、誇らし気に、凛として道行く男達の熱い視線を涼し気な顔で受け流していた。

ベンツのスリー・ポインテッド・スターが、時計台のビルの屋上に燦然と輝いて見える街の中央広場から、細い路地を曲がったところにあるその小さなカメラ屋は、職人気質の親父さんと、太って愛想の良いおばさんが、二人で営むこじんまりした店だった。品数もそんなに多くは無く、ライカとコンタックスが5~6台づつ、二眼レフのローライフレックスや蛇腹のベスト・コダック、そのほか大判のカメラがいくつかある程度で、その他はアクセサリーの露出計や、スライド式折り畳み傘の形をしたストロボ、そして交換用のバルブがいくつか並ぶ程度だ。

男は、午後も遅い時間、もうすぐ日が暮れようという頃やって来た。

カメラの修理をしていた親父さんは、左目に掛けた単眼鏡をはずす事無く、ちらっと男を見ただけでそのまま修理を続けていた。店に入って来たその男は、店内を左のはじからゆっくりと見回しながら、正面にあるショーケースの前にくると、腰をかがめてその中を覗いた。

親父さんは、またちらっと男に目をやり、そのまま修理を続けた。男はだまってショーケースの中のカメラを、左から順番にていねいに見ている。親父さんは修理の手を休め、単眼鏡をはずして男の前にやって来た。男は待っていたかのように腰を延ばし、親父さんに言った。

「あのショーウィンドゥの真ん中に飾ってあるライカを見せてくれませんか?」

親父さんは黙ってうなづくと、ショーウィンドウの中から新品の黒いライカを、宝物でも扱うように緊張しながら持って来た。

親父さんはショーケースの上にセーム革を敷いた。その上に置かれた黒い新品のライカを、男は暫く黙って眺め、やがて腰をかがめて食い入るように見つめた。親父さんはライカを取り上げると、レンズを鏡筒から引き出し、ノブを巻き上げ横を向いてカメラを構えてシャッターを切った。

「チャキッ!」静かな店内に堅実そうなシャッター音が響いた。

もう一度ノブを巻き上げると、だまって男の手にライカを渡した。男は暫くレンズを外側から眺めて、おもむろにカメラを構え横を向いた。店内のあちこちにレンズを向け、壁にかかっていた時計に向かってシャッターを切った。

「チャキッ!」男は嬉しそうに微笑むと、また時計に向けてシャッターを切った。

何度かそれを繰り返しライカを親父さんの手にもどした。

「いくらですか?」男は静かな声で尋ねた。

「250マルク。50ミリの標準レンズと革製のケース付きです。」

当時、標準的なサラリーマンの給料が月だいたい15マルクから20マルク。相当高価な金額だ。

男は黙ってうなづくと、内ポケットから封筒を取り出し、中から札束を取り出した。日常ではめったに見ない10マルク紙幣を25枚。一枚づつ数えながらショーケースの上に置いた。

親父さんは札束を受け取ると、もう一度ていねいに数え直した。

「確かに、250マルク。」親父さんは札束をレジにしまって、ショーウインドゥから赤いハードケースを出し、ライカをしまおうとすると男が言った。「そのままで結構です。」親父さんはちょっと意外そうな顔をしたが、うなづいて箱は空のまま袋に入れた。新しいフィルムを1本取り出し、フィルムの端を慎重にカットしてライカに納めた。

「失礼ですが、どんなものを撮られるんです?」親父さんが聞いた。

「明日、子供の運動会なんですよ。その様子を残しておこうと思いましてね。」男が答えた。

親父さんがふと顔を上げると、男は口元にかすかに照れ笑いを浮かべた。

「そいつは良かった。このライカで写真を撮ってもらえるなんて、幸せなお子さんだ。それにしても、時期外れな運動会ですな。」親父さんは軽く笑った。

男は一言、「ありがとう。」そう答えて、アクセサリーや空箱の入った袋とライカを受け取ると、軽くおじぎをして出て行った。

「ありがとうございました。」親父さんが男の後ろ姿に声をかける。

男はドアの外でもう一度振り返って、手を上げて去って行った。

翌朝、まだ夜が明けきる前の薄暗いニュルブルクリンク・サーキットに、新品のライカを首から下げた男が立っていた。

シンと静まり返ったパドックに、低いトラックの排気音が聞こえてくる。大きめのそのトラックは、ピットの裏に来て止まった。5~6人の男達がトラックの周りに集まり、無言で積み荷を下ろし始めた。滑るように出て来たその積み荷は大きな覆いが掛けてある。男が二人掛かりでそのカバーを取り外す。その下からは、アルミの地肌が銀色に輝く、一台の低い車高のスポーツカーが姿を現した。

流線形のシルエットは、美しいカーブを描いている。山の向こうから眩しい朝日が顔を出し、スポーツカーに陽の光が当たった。集まった男達は、眩しそうに目を細め、新しい輝く時代の夜明けを見るような気持ちで、その光景を眺めた。

朝日を受けて光り輝く銀色のスポーツカーの姿は、荘厳でさえあった。

男は真新しいライカを構え、シャッターをきった。

男の名前はウォルフガング・ミューラー。銀色のスポーツカーの設計技術者の一人だった。今日は、出来立てのレーシング・マシンのシェークダウンの日だった。

車を降ろしたその後は慌ただしかった。十数人のメカニック達が、黙々と整備をこなす。

エンジンの調整がなされ、タイヤの空気圧が計られ、各部のネジがしっかりと増し締めされた。ボンネットやミッドシップに積まれたエンジンのフードがワイヤーで固定され、航空機用のハイオクタンのガソリンが注入された。それらの作業がまた、十数人の背広姿の男達に見守られていた。

チーフメカニックがミューラーに目で合図を送る。ミューラーがうなづくと、車体後ろのクランクシャフトに接続されたセルモーターが回された。短いクランキングの後、獰猛な野獣が目覚めるかのようにエンジンがかかった。エンジンの咆哮は、地響きの様に朝焼けの空気を震わせ、辺りに轟いた。

ドライバーと思しき背の高い男が、レーシングスーツに身を包み、革製のキャップとゴーグルを片手に現れた。

ミューラーがドライバーとチーフメカニックを呼び寄せ、二言三言指示を与える。

ドライバーはうなづくと、車高の低い、やや前よりに位置するスポーツカーのシートに、長い足を折り曲げるようにして乗り込んだ。シートサイドのボディーには、ハーケンクロイツのマーク。車体の前のボンネット下には、四つの円が重なりあったマークがペイントされている。ドライバーは狭いコクピットの中で、キャップとゴーグル、そしてグローブをつけると、ハンドルを握りしめ、片手を上げた。

ミューラーはライカのファインダーの真ん中に彼の姿を捕らえ、シャッターを切った。

チーフメカニックがピットの前で手を大きく回している。ドライバーがアクセルを踏み込む。銀色に輝くスポーツカーは、獰猛な咆哮を残し、滑るようにピットを後にした。

この車こそ、アウトウニオンが勢力をかけて作り上げたグランプリカー、「Pワーゲン」だった。

Pワーゲンは誰もいない朝焼けのサーキットを、一周目はゆっくりと、足場を確認するように走った。2周目の直線で、序々にスピードを上げて行く。しかし、まだ5分目くらいのスピードだ。

Pワーゲンは2周するとそのままピットに入って来た。メカニック達が待ち受ける。ピットに戻ったマシンを素早く点検する。タイヤ、エンジン、ボディ......各部の担当メカニックが異常なしと親指を立てる。全部のチェックが終わった事を確認して、チーフメカニックがドライバーにGoサインを送る。

ドライバーはゆっくりとうなづくと、ゴーグルを微調整してハンドルに手を掛けた。左手の親指をたてると、弾かれたように飛び出して行く。

次の周からPワーゲンは全力疾走に移った。

長いストレートを疾風のように駆け抜けると心地よいエグゾーストノートを残して、ストレートエンドの上り坂を駆け登る。タイヤの軋む音を山々に響かせながら、Pワーゲンは快調に飛ばして行く。

ミューラーは真新しいライカでその走りを次々と写真に納めて行った。

10周程するとPワーゲンはピットにもどって来た。

メカニックやアウトウニオンの重役達が笑顔でPワーゲンを迎えた。メカニックはすぐさま整備に取りかかったが、重役達はテストドライバーのシェルマンを囲んでマシンの出来を確認する。ミューラーは重役達に取り囲まれたシェルマンの姿もライカに納めた。

 ミューラーに気付き、シェルマンが上気した顔で近付いて来た。

「俺の走り、撮ってくれたかい?」

「ああ、もうフィルム二本も無駄にしちまった。」

シェルマンが笑いながらミューラーの肩をたたいた。

「高く売れるぜ、そのフィルム。Pワーゲンは最高の車だ!恐ろしい位のパワーだぜ! まるでライオンに後ろから押されてるみたいだったぜ!」

「あまり無理してマシンを壊さんでくれよ!まだこれ一台しかないんだ。」ミューラーは若いシェルマンの興奮気味な表情に、マシンの成功を見て取った。

談笑する二人のところに、小柄でずんぐりした中折れ帽姿の紳士がやって来た。Pワーゲンの設計責任者のフェルディナンド・ポルシェ博士だ。

「シェルマン、良い走りだったじゃ無いか。」ポルシェは相好を崩してシェルマンに右手を差し出した。

 シェルマンも胸をはってその手を握り返した。

「ポルシェ博士、Pワーゲンは最高の車です!素晴らしいエンジンパワーだ。ちょっとじゃじゃ馬だけど、これならグランプリで絶対ベンツの鼻を明かしてやる事ができますよ!」

ポルシェはそれを聞いて、嬉しそうにうなづいた。

「そうだ、ミューラー、重役連中をパドックのレストランに連れて行って、朝飯でもくわせてやってくれ。ここにいられるとうるさくてかなわん。」

ミューラーはうなづくと、アウトウニオンの重役達を引き連れ、ピットからパドックへと向かった。

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アウトウニオンP-Wagen とポルシェ博士(「愛するポルシェとともに」より)

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フェルディナンド・ポルシェ博士(ポルシェ資料室より)

 その年の始め、ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を獲り、国威発揚を狙ったヒトラーは、それまでグランプリをリードしていたイタリア勢を負かす為、ダイムラー・ベンツとポルシェ博士、それぞれにグランプリで勝てる車を作るよう、厳命していた。

ポルシェはすでにその頃、ダイムラーベンツ時代の師匠であるルンプラーが設計した、ミッドシップレイアウトのレーシングカー”トロプフェン・ベンツ”に改良を加えたモデルの設計図を完成させていた。それをヒトラーの提案でアウトウニオンに作らせたのが、このPワーゲンだった。PワーゲンとはPorsche wagenの意味だ。

 1933年は翌34年から新たに変更されるグランプリ・フォーミュラが発表された年でもあった。ダイムラーベンツとポルシェは、こうしてグランプリの準備を着々と進めていたのである。

 その夜、ミューラーが自宅に辿り着いたのは午後九時を少し回った頃だった。妻のクラウディアが、息子のミックと娘のパトリシアに絵本を読んで聞かせていた。ミックとパトリシアはミューラーの姿を見つけると食卓にやって来て、今日裏庭で小山を作って遊んだ話をした。

 ミックはミューラーの荷物にライカを見つけ、目を輝かせた。

「そうだ、フィルムがまだ何枚か残ってたなぁ、お前達の写真を撮ってあげよう。」

 ミューラーはライカを構えて子供達に向けた。

 ミックとパトリシアははにかむような笑顔を浮かべてレンズを見上げた。

「チャキッ!」

 今度はミックが妹を前に抱えるようにしてポーズをとった。また「チャキッ」。クラウディアが夕食のスープを運んで来た。ミューラーは、その姿にもレンズを向け、シャッターを切った。クラウディアは、恥ずかしがって危うくスープをこぼしそうになった。家族の笑い声が響いた。クラウディアはスープをテーブルに置くと、髪を撫で付け、二人の子供を両脇に抱えて笑顔を作った。

ミューラーは幸せを噛み締めつつ、3人にピントを合わせ、シャッターを押した。

仕事場のデスクの上に飾られた、3人の笑顔の写真。

ミューラーはその前にPワーゲンの設計図を広げ、こめかみを鉛筆でたたいていた。こないだのテスト走行で解った、不具合の箇所を、どうしたものかと思案していた。

「どうだね、問題解決の糸口は掴めたかね?」やって来たのは、ポルシェ博士だった。

ミューラーはダイムラーベンツ社にいた時から、いや、正確には学生の時から、自動車のデザインにおいて、博士の合理的で独創的なアイデアに心酔していた。ポルシェ博士がいたからダイムラーベンツ社に入った樣なものだった。「彼の元で設計を学びたい」そう思ったミューラーは、ダイムラー社でポルシェの元、市販車を改造して作ったレーシングカー、メルセデスベンツSシリーズなどを共に開発してきた。そして三年前、1930年にポルシェが独立してポルシェ設計事務所を起こした時、一も二もなく付いて来たのだった。

ミューラーは、小さい頃からオートバイや車に強い憧れを持っていた。鍛冶職人だった父は、幼いミューラーの為にブリキでおもちゃの自動車を作ってくれた。ミューラーはそのおもちゃで遊ぶのが大好きだった。

年頃になると、オートバイを手に入れ、仲間と連れ立ってよく走りに行く様になった。そして、仲間の誰よりも速く走りたいと思う様になり、レースへと目覚めて行ったのだ。しかし、自分でレースに出場する事は、学生時代のオートバイ競技で終わりにした。車のレースは、貧乏学生に手が出せるような遊びではなかったのだ。やがて彼は、自分でレーシングカーを作ってみたいと思う様になっていた。

1920年代から30年代前半にかけて、世界のモーターレース界をリードしていたのはアルファロメオ、マセラティ、フィアット等イタリア勢だった。中でもエンツォ・フェラーリチーム監督率いるアルファロメオは、イタリアの時の宰相ムッソリーニの「イタリアの為にレースに勝て」という激励を受け、国威発揚に大いに貢献していた。

その頃、唯一ドイツ勢で対抗していたメルセデスベンツのレーシングカーを作っていたのが、ポルシェ博士だった。

ミューラーはダイムラーベンツ社に入社以来7年間、様々な仕事を通じて、ポルシェの影響を大きく受けて来ていた。ポルシェ博士も、若く、レーシングカーの製作に一生懸命なミューラーのことを大いにかっていたのだった。

ミューラーはポルシェ博士に、いくつか悩んでいる点を質問した。ポルシェは、それらにテキパキと適格な指示を出し、去って行った。改めてミューラーは博士の偉大さに感服し、その助言を元に、技術的な高い壁を乗り越えて行くのだった。

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設計作業中のフェルディナンド・ポルシェ博士(Porsche AG より) 

http://dedeporsche.com/tag/ferdinand-porsche/)

その頃、ドイツ国内ではヒトラー率いるナチスが台頭し始めていた。

3月23日にはヒトラーに独裁権を与える全権授与法が成立し、SS(親衛隊)による国内の治安維持体勢の強化が進められていた。5月にはユダヤ人著者が書いた書籍の焚書が行われ、徐々にではあるが、ユダヤ人迫害の気運が育ちつつあった。

ポルシェ設計事務所でも、その経営・財務を担当していたユダヤ人のアドルフ・ローゼンベルガーが、ヒトラーの首相任命と同じ日、辞任しアメリカへと亡命していった。

そしてこの年10月、ドイツは国際連盟と軍縮会議を脱退し、ヒトラーは第一次大戦以後禁止されていた再軍備を開始した。

ポルシェの抜けたダイムラーベンツ社は、ハンス・ニベルを後任の技師長としてGPカーの開発を進めていた。

(第2話に続く)

ご興味のある方はこちらで→「傷だらけのライカ ~ポルシェ・フェラーリ・シルバーアローの闘い~」http://bit.ly/1rYmf8c


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