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家庭環境が恵まれなかったが、お袋の味といえば…母の卵焼きは好きだった


noteさんの”創作大賞”に応募してみようと短いエッセイを書いてみました。

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この前、料理をしていて、私にとっての”おふくろの味”ってなんだろう?ってふと思った。

母の味???
うーん、母の味かぁ…???なんだろう??

食卓に並んでいたおかずを思い出してみても、酒豪の母が作るものは
酒のつまみに合うものばかり…。

そもそも母が作ってくれた料理を覚えてない。
イカのおさしみとか、まぐろのおさしみとか、キムチとか、塩辛、ぜんまいとか、サザエを焼いたもやホヤとか.....とにかく、お酒に合うようなものしか思い出せない。そしてこれらは料理とは言えない。

私は家庭料理らしい料理を家で食べた記憶がない。
そういう料理は全部、学校の給食で食べていた気がする。
カレーでさえも学校の給食の味を思い出してしまう。
私のお袋の味は給食のおばさまたちが作ってくれていた料理だろうか?とも考えてしまうほど、母の味がわからない。


私の母の事を少し説明をすると、昭和時代....茶髪にカーリーパーマ、ピアス空いてるしタバコもお酒もしていた。
母は当時にしてはぶっとんでおり、よく昭和のドラマにでてくる
お水系の感じがある母だった。
少なくても私の周りにはそんなお母さんはいなかった。

そして私が小学6年の時に家からいなくなった。
死に別れとかじゃなく…蒸発した。

6年生になる前も何度も家に帰ってこないことがよくあったが、
私が小学6年の秋にいなくなった。

それも次の日が修学旅行で日光に行く予定だったというのに。

母は「あんたの新しいパジャマを買いにいってくるね」と言い残し、タクシーに乗って消えていった。

私はなぜだかわからないが、その日、母は帰ってこないかもしれないと
タクシーを見送りながら思った。
実際、私の勘が的中して本当に帰ってこなかったが、悲しくもなかった。


それから何度か母と会える機会があったが、二度と会いたくない存在と
なった。生きているのは知ってはいるが、今ではもう会っておらず、どうなっているかも知らない。

そんな母のことを考えながら、子供の頃につくってもらった"卵焼き"を思い出した。私のあまり思い出したくない記憶ではあったが、卵焼きを思うと心が優しい気持ちになれた。

当時、家でも卵焼きはでることが多かったが、遠足のお弁当にもよく卵焼きが入っていたのが嬉しかった。

ちょっと塩味の濃い卵焼き。
酒飲みの母が作るから味が濃くなってしまったのだろうけど、私はその味が好きだった。

今現在、母がどうしているのか気にはなるけど、
いろんな現実を受け止められないかもしれないから会わない。

私は自分ががんになり、脳腫瘍と言われて自分のことで手がいっぱい。
精神的にも金銭的にも余裕はない。

それでも…… 私は私を産んでくれた母に死ぬ前にあった方がいいのかもしれないと思う気持ちはあったりする。死んでからでは遅いのはわかるから。


もし会うことがあったら、またあの塩気の濃い "卵焼き"を作ってもらいたいなと思う。

2004年に若年性(33歳の時)の乳がんになって18年目にです。心のつぶやきをここに書き残したいと思います。もし、私のつぶやきがあなたの参考になればサポートありがたいです。私自身の経験に使用して、皆様にお話しできればと思います。 私への支援はもっとありがたいです。