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Feynman’s Rainbow:ファインマンさん 最後の授業

二週間ほど前、どうにも宇宙物理学を勉強したくなった。

はじめにことわっておくと、私は自他共に認める数学下手である。

その足で書店に向かい、「宇宙物理学」と書かれた本棚の見出しを探して丹念に基本書を選別する。この作業こそが書店に足を運ぶことの醍醐味である。ちょうど往年のレコード蒐集家が、素早い手つきで盤を取っては離し、取っては離しと選定するのに似ている。

自分の財布と相談しつつ、選んだ基本書2冊をレジに持っていく。この購入の瞬間も私にとっては快楽的なものなのである。

さて、家に帰って本を開いてみる。案の定、何が書いてあるのかさっぱりわからない。
もちろんページをパラパラめくりつつ本は選んでいたので、一応わかりきっていた状況ではある。落ち着きはらって本を閉じ、ティーバッグの紅茶を淹れる。

はて、どうしたものか。そもそもなぜ宇宙物理学など勉強しようと思ったのだ。数学的センスは皆無、日本が世界に誇る文系人間であると自認しているというのに、物理学、それも大学レベルの基本書を何の準備もなしに買ってしまうなど、完全に正気の沙汰ではない。もう本は書店から家に持って帰ってしまったし、今更返品する気にもなれない。
仕方がないので、とりあえず購入時点でかろうじて自分が想定していた行動を実行しようと考えた。

まず、何を学ぶにしても、自分が何を知らないのか、どこに疑問を感じているのかをはっきりさせることが肝要であるので、基本書の片方を開き、訳のわからない部分を明確にするに努めた。

その結果、まずは高校レベルの物理、要は初歩の初歩から勉強し直す必要があることがわかる。高校二年生で物理基礎をとっていて、そのテストの点数も良かったので、ある程度は物理の勉強も許容できる脳があることは自分でもわかっていたが、なかなか骨の折れる勉強である。理系の受験生が入試のためにやることをやらなくてはならない。こちらは特段プレッシャーなどは無いのだから、そのぶん自由に学べるとはいえ、それにしても大変なことを始めてしまったなあと思った。

勉強を始めてから三日ほど経った頃、どんどん物理に対する興味は増してきたものの、やはり脳がだいぶ疲れる。なので散歩がてら、池袋のジュンク堂書店に行って脳を休めることにした。インドアな人間にとって、外出に値する行き場所とは書店と映画館以外存在しないのである。

まずは3Fにある文藝の棚を眺める。相変わらず整った選書である。文庫コーナーに向かい、角川・新潮・集英・ちくま等をチェックする。

基本的に書店に訪れるときは、その日に購入できる数以上の本を手にしてしまうことが多い。
財布と話し合った上で、相場として3冊程度が予算の上限であるから、仮に10冊チェックしたとすれば、その中の多くに関してはその日は諦めなくてはならない。

さて、いつも通り書店の全階を回り、何とかチェックした本の中から3冊を選び出すことに成功。

さあレジに行こうか、いやその前にもう一度3Fに寄っておこうと、エスカレーターを途中で降りて3F・文庫コーナーに帰還した。ちなみにその時までに、書店に入ってから1時間半は経過していたと思う。

好みの本が多い、ちくま学芸文庫の棚前に着いた。本の背表紙を眺めつつ、購入前の最終確認を済まそうとしていたところ、ある本が目に入った。

「ファインマンさん 最後の授業」
惹かれるものがあって、そう書かれた淡い青の背表紙を掴み、裏表紙の紹介文を一瞥。面白そうだったので、例外的にこの一冊を加えて購入し、家に帰った。

「僕は昔から、一番難しい問題が好きなんだ……そうやって自分を過大評価して、自分を夢中にさせるんだ」

リチャード・ファインマン。二十世紀を代表する物理学者の言葉だという。
夕食後、ノンフィクションとして書かれたその本をぱらっとめくると、魅力的な目次タイトルが登場した。「おとなりは、ファインマンさん」。
どうやら作者はファインマンさんの元同僚の科学者であったようだ。

はじめに、作者は自らが博士論文の中で提出したアイデアが研究者の間で高く評価されたことで、ファインマンをはじめとした名だたる科学者が鎬を削る、カルテク(California Institute of Technology)の研究所に招聘される。

カルテクに出勤した初日、作者はいきなり学部長の呼び出しを食らうのだが、それに対する作者の心情が面白い。

「初日に、学部長の呼び出しをくった。カルテクでは物理学、数学、天文学が一つの学部にまとめられていて、そのトップにいる人物だった。そんな立場の人物が、わたしなんかに何の用があるのか、よくわからなかった。研究員にしたのは手違いだった、と言われるのか……それくらいしか思いあたらなかった。わたしは、学部長がこんなことを言い出す姿を想像してみた。
『悪かったね、うちの秘書が間違って採用通知を送っちまったんだよ。ほんとはレナード・M・ロディナウ君が採用だったんだ。レナード・ムロディナウ君じゃなくてね。君も知ってるだろ?ハーバード出のロディナウ君だよ。ちょっとしたミスじゃないから、許してくれるよね』」

ファインマンさん 最後の授業/著:レナード・ムロディナウ,  訳:安平文子/ちくま学芸文庫/P26

カルテクに招かれた時、作者・ムロディナウは、自分が「科学者らしくない」ことに不安を覚えていた。作者は学部時代の時、自分の研究分野における疑問について先輩の大学院生に質問しようにも、壁を感じて思いとどまってしまう。普通の一般人と「科学者」という人間は違うのだというイメージに押しつぶされ、晴れて研究者となったにも関わらず、学部時代と全く変わっていない自分自身に戸惑っていた。

一方、カルテクにもさまざまな人間がいる。若年に劇的な研究成果を収め、永続的にカルテクで研究する権利を得たものの、その後は燃え尽き症候群にかかって研究意欲を失ってしまった研究者。クールで、素敵な彼女をもつギリシャ人の同僚など。奇想天外な人間がいっぱいのカルテクで、悩んだ作者は、その時にはもう病気のせいで衰弱が進んでいた同僚、天才科学者・ファインマンに人生相談を求める。

「自分には、科学者になれるような特別な資質があるか?」

一見するとあまりに漠然としていて、答えに困惑するような問いだが、ファインマンはそのエキサイティングで独創的な言葉をもって、作者に科学者としての生き方を語る…。

ファインマンによる、魅力的で、勇気あふれる言葉に満ちた本だった。

物理学者として、ファインマンは数多くの業績を残したが、彼が後世の人々から愛される理由はその生きる姿勢にある。
今でもSNSにはファインマンbotがあるほどで、実際私のタイムラインにも毎日ファインマンの名言が流れてくる。名言botなのだから当然かもしれないが、その言葉のひとつひとつが輝いている。

本を読み終わったのち、物理を学ぼうと思ったことも、それからこの本に出会ったことも、私にはどれも必然のように思えた。

人は、出口の見えない人生の中で、支えになるものをいつも探している。そこで探し当てるものは人によって異なるだろうが、どうせなら死ぬまでずっと関われるものと付き合って暮らしていきたい。

ファインマンの言葉は、そんな思いを抱えた迷える学徒たちにとっての灯台なのである。

学問の道は長い。
いまだに高校物理の三分の一も勉強できていない。宇宙物理学の基本書を開けるのはいつになるのだろうか、全く見通しなど立たないのであるが、それが面白い。何かを学ぶとき、私たちは終わることのない旅路の中にいる。目的地に向かおうとして道に迷うこともあれば、その先に思いがけないものを見つけることもある。それらが人生を生きる上での喜びであり、支えとなるのだ。

そう実感した夜、私は未来に煌めきを感じて眠ることができた。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

画像:Copyright Tamiko Thiel 1984, CC BY-SA 3.0













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