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私の「がん告知」

「がんです。余命は3ヶ月程度でしょう……」
「そんなっ…先生!!何とかならないんですか?!」
これが私の「がん告知」のイメージだった。

でも現実は、そんなイメージにありがちな真っ白い壁に真っ白い机、大写しのレントゲン写真もなく、薄暗く生暖かい部屋で一言、
「残念ながら悪性でした」
と告げられただけだった。
そして私は、医師がそう口を開く3秒前に、机上のパソコンを盗み見て「悪性です」の文字を目ざとく見つけていたのだった。
私のがん告知は、そんなカンニングのような告知だった。

2020年3月1日。
お昼前の柔らかな日差しいっぱいの教室。
格子状の光と影の中から私を見つめる41人の瞳。
「時には綺麗事を押し付けたこともあったと思う。それでもそんな私に付いてきてくれて……君たちにはほんとに……」
溢れ出る涙がその先を遮った。
3年間、自分よりも家族よりも恋人よりも大事にしてきた彼らを卒業させたあの日、わたしは人生で一番の幸福と達成感に満ちていた。
憧れだった「3担」ならではの袴に身を包み、1ヶ月かけて用意したクラス全員分の手紙を一人一人に手渡す。
「俺らからも先生に渡すものがあります」
委員長から受け取った、一抱えある大きな包みの中には、3年間好きだと言い続けてきたキャラクターの70cmはあろうかというぬいぐるみが入っていた。私の笑いか、あるいは涙を期待する視線を感じながらもあまりの大きさに苦笑した。
「最後に君たちに話があります。実は先月、結婚しました。相手はみんなも知ってる……」
「ついに!ほんとよかった!うおー!」
よく晴れたその日の陽溜まり以上に温かな時間だった。
私はきっとこの先一生、何年経っても、何度季節がめぐっても、この春を思い出す。


春は、私にとって、そういう季節になるはずだった。
なのに。


それから1年後、2021年3月2日。私は夫と2人、がんセンターの「女性センター」の待ち合いにいた。
天気も時間も覚えていない。今ではすっかり見慣れたズラリと並ぶクリーム色のソファ。明るい木目のテーブル。握り合わされた私の手。
覚えている景色はそのくらいだ。
視覚からの記憶よりも、胸の中央を痛いくらい打ち続けた心臓の鼓動と、カラカラに乾いていく喉、気を抜くと口から出てきそうな胃、そんな苦しい感覚ばかりが鮮明である。
しかしこの緊張は、「がんなのかな?違うのかな?」という思いから来るものではなかった。
「今日、始まってしまう。私のがん患者としての人生が、ついに始まってしまう。今日で私の人生には、もう戻れない区切りができてしまう」
そんな、「がん患者としての私」に出会う前の緊張だった。

というのも、前回MRIを受けた日に貰った予約票の「3月2日:結果説明 3月5日:PET-CT」という予定を見て、私はもう十中八九がんで決まりだと覚悟していたのである。
予約票を見た日の夕方、震える声でがんセンターに電話をかけたことを今でも覚えている。
「あの、PET-CTってことは、もう癌で決まりってことですよね?」
テキパキした看護師さんは、
「予約の取りにくい機械なので予め予定に組んでいるんです」
と答えたけれど、気休めだろうなと絶望しながら電話を切った。
答えられるはずのない質問を、答えてもらえないと解っていてぶつけた。バカだと思う。愚かだと思う。でもどう思われたってもうどうでもよかった。どうせ癌なら、誰にどんな迷惑かけたって良い。
あの頃の私は静かに発狂してた。それが常態だった。

人生が区切れてしまう。その緊張から来る吐き気と戦っていると、呼び出し受信機から三和音くらいの間抜けなメロディーが流れた。液晶が光る。診察室に入るよう指示が表示された。夫と立ち上がる。頭からお腹まで、血液が上下するのを感じた。

診察室に入ると、針生検を担当した医師が待っていた。隅には私より大分若そうな、メガネをかけた看護師さんが落ち着かないようすで立っていた。
医師を絵に描いたら10人中8人はこんな風に描くだろう、そう思われる風貌の医師だった。七三に整えられた少し薄くなりはじめた黒髪、太すぎない黒渕のメガネ。皺のない白衣。動かない表情。
彼の前に腰掛け、私は腰を掛けるために屈んだ姿勢を利用して机上のパソコンを盗み見た。
ずらずらっと日本語や英語が並ぶ。その真ん中より少し下。他の記載事項と変わりないそっけないゴシック体で
「悪性です」
という文字が私の目に飛び込んできた。
あぁ、どうしてこういう時、人は確実に求めている情報を見付けられるようにできているんだろう。それがどんなに、悪いことでも。
私の視線を知ってか知らずか、医師は落ち着いた口調で告げた。
「残念ながら悪性でした」
「あー、そうなんですね」
「ガン」と言われなかったから「ガーン!」というリアクションが取れなかった…わけではないが、職場の人にプライベートな秘密を打ち明けられたくらいのテンションで相づちを打ってしまった。
医師は早口で付け足す。
「エコー、MRIを見る限りリンパに転移はありません。おそらくステージ1。日本では早期発見と言われる部類です」
いいこと、なんだろう、たぶん。マシ、なんだろう、きっと。
(※実際は術後病理診断でしこりが2.4cmだったことがわかりステージ2aとなった)
そこまで聞いて、私は両手で顔を覆って深く頭を垂れた。私の中に舞台監督かなんかがいて、「ここだ。泣きのシーン、ハイ!」と言った気がした。たぶん今。今を逃したら私は今後この人たちに涙を見せられなくなる。
が、数秒待っても涙は出なかった。そしてこの時の予想は的中し、私は告知のこの瞬間から今日に至るまで、病院では一度も泣いたことがない。
涙の変わりに、私はまた「答えられるはずのない質問」を絞り出した。
「……治るんですか?」
医師は一呼吸置いた。
「……今は良い治療法がたくさんあります」
「治る」とは言わなかった。あぁ、彼はプロだなとぼんやり思った。
「あの、他の臓器に転移してる可能性は?」
「この段階ではほぼないと思いますが、可能性はゼロではありません。血管とかリンパに乗ってガン細胞は巡っていくので。それを5日のPET-CTで調べます」
ほらね。やっぱり「がんの人」がやる検査じゃない。
「遠隔転移の可能性はゼロではない」この事実は私に重くのし掛かった。

診察室を出ると、先ほど隅で縮こまっていた看護師さんが様々な検査の説明をしてくれた。
もう今日から、血液検査や肺の機能の検査など、「手術に耐えられる身体かどうか」くまなく調べるということだった。

エコーを待つ間、スマホを出しTwitterを開いた。
癌かもと思ったあの日から、実は同世代のがん患者さんのTwitterをいくつか「監視」していたのである。でもフォローはできなかった。もし、万が一、癌ではなかったときに、彼女たちを不用意に傷付けてしまう気がしたからだ。
学生時代の後輩がたまに呟くのを見るだけのTwitterだった。もうパスワードもろくに思い出せない。それでも私はなんとか新しいアカウントを開設した。いわゆる「闘病垢」である。アカウント名は、パッと浮かんできた息子のアダ名から取った。高速でスマホの上をなぞる私の指を、夫が少し覗き込んだのを感じた。

帰りの車中、私は母に電話をかけた。
「やっぱり癌だった。とりあえず今の段階では転移はないみたい」
「そっかー。治療するしかないね!転移がなくてよかったじゃん!」
いつもの能天気な母だった。
電話を切り、後部座席から運転席の夫に声をかけた。
「なんかごめんね。これから大変になるけどごめん」
「ううん。あやまらなくていいよ」
いつもののんびりした夫だった。
もうすっかり黄昏時だった。黄みを帯びた藍色の空に、赤い影を持つ雲が流れていた。
なんだろうこれは。私の人生はいったいなんなんだろう。
20代で、乳がん。そういう人生を歩むと思った?思わないよね?なんでこんなことに?
空を見ながら意味のない自問が頭に溢れて止まらなかった。
ふと、家で待つ息子を思い出す。ふわふわのロンパースを着た、やっと首が据わってきたへろへろの息子。
ねぇもしも、乳がんにならない人生を選べたらどうした?やりなおした?
この問いにだけは即答できた。
「息子を産むために、私はもう一度この人生を選ぶよ。がんになったとしても」

母の家に帰ると、叔母と9つ下の従妹が息子を見ていた。母は既に夜の飲食店の仕事に出ていた。
叔母の顔を見たら、病院で絞り出せなかった涙が堰を切ったように溢れた。
「大丈夫だって!早期なんでしょ?息子がいるから死んでらんないよ!」
いつもの快活な叔母だった。
昔、高校受験の倍率が発表されたときも、落ちるのが不安でこんな風に従妹がいるところで泣きじゃくったな。びーびー泣きながらそんなことを思い出した。あの時、「泣いてんの~?」と馬鹿にしてきた従妹は、今日は静かに息子をあやしていた。
息子のパタパタ動く手足が視界に入る。苦しくて直視できなかった。息子を思うと、同時に母のことも思い出された。
「私、この子が産まれてからいつもこの子に何かあったらって思うのに、私がこんなことになってお母さんに申し訳ない……!」
ほとんど叫ぶように叔母に気持ちをぶつけた。
「申し訳ないなんて思うことないよ!」
やっぱり、いつもの快活な叔母だった。

家族の中では優秀で、たいして高くもない学歴を鼻にかけて、斜に構えていた私。
だから家族の前で泣くのはプライドが許さなかった。のに。
がんが私の人生に現れてから、私は誰の前でも子供のように泣きじゃくるようになっていた。
私はそんなふうに変わったのに、母も夫も叔母も、私を支える家人は誰も、変わらなかった。
それがどれだけ有り難いことか、この時の私はまだ知らない。

2人に1人ががんになります。
そんな文言をテレビだったかネットだったか、保険会社のビラだったか、昔どこかで見かけたとき、ぼんやり思ったものだ。
「じゃあ私もいつか50%の確率でがんになるのかな。それで死ぬのかな。胃とか?肺とか?痛いのかな。苦しいのかな。」
その「いつか」は、たった29年でやってきた。
そしてそのとき私は、どこも痛くも苦しくもなかった。ただ心だけは、もうすっかりバラバラに砕けて痛みを通り越して凪のようにしんとしている。しんとしているくせに、ほんの小さな小石であっても投げ入れればその波紋は高い波になりたちまち決壊する。この日から私は、そんな心を抱えて生きていくことに決まった。


春が、また来た。
2年前の卒業式をしみじみ思い出すような健全な精神はこの一年で壊れてしまった。
ちょうど1週間後に、私は術後一年検診の結果を聞きに行く予定である。どんな結果なのか、想像するだけで吐きそうであるし、何も手に付かない。
私は今も一年前のあの頃のように、静かに発狂している。
私にとって、春はそんなふうに姿を変えたのである。

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