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脳出血(*_*)でも、歩く、笑う、私は元気③

脳出血患者になって、最初に入院した病院で命を救っていただいたが、入院中に嫌な経験をした。もう二度とこの病院に来たくない、そう言って去ったくせに、私は転院先のリハビリ病院を退院して9日後、再び同じ病院を訪れ、院長先生の診察を受けた。脳神経内科医の院長先生は、入院中と変わらず私の一言一言に耳を傾け、慎重に言葉を選んで答えてくれた。

診察の最後に、余計な質問をした。質問と言うよりも弱音を吐いた。リハビリ病院に転院後、リハビリのおかげでさらにできることが増えてリハビリの効果としての検査の数値は良くなった。でも、病院を一歩出てみるとできないことだらけ。できるはずのことができない。感覚障害は全く良くなっていない。左足は動いているが、時々どこにあるのか分からなくなる。足の裏は感覚ゼロのまま。何よりも辛いのは、ずっと痛いのを我慢して苦しんでいる。それらは見た目で人に理解してもらえない。この苦しさから解放される日が来るのかどうか、聞いても無駄なのに聞いてしまった。
院長先生は、優しい眼差しを私に向けてこう言った。
「今の症状がいつかなくなるという事は考えない方が楽ではないでしょうか。R(私の名前)さんは、今できることがたくさんある。歩けるし、仕事もできる。できないことを工夫してできるに変えることができる。この先はできることをどんどん増やすことを考えたらどうでしょう。」
院長先生はこの言葉の後、具体的に、靴を履くのに困らないように小さくて軽い椅子を持ち歩いたり、かばんはリュックにしたり、電車に乗るときは車掌がいる場所の近くのドアを前もって調べておくなど、私が自立した生活を送るための工夫を教えてくれた。

私の小学校の同級生である脳神経外科医は、大きな病院への紹介状を書いてくれたのだが、症状が固定し慢性期となっている私を受け入れてくれる病院はなかった。同級生は「救急車を呼ぶ事態になって、患者自身があの病院はだめ、この病院に行きたいと言うなんてできない。あきらめなさい。」と私を諭し、すごすごと嫌な経験をした病院にまた行くことになった。でも、嫌な顔一つせずに私を受け入れてくれて、今後の相談にも乗りますと言ってくれた院長先生のおかげで、私は痛くても、元気に生きていけるように思えた。

さて、退院当日にさかのぼる。リハビリ病院を退院後のシナリオはバッチリできていると思っていた。でも、病院を一歩出たとたん、世界は私にやさしくない…!何もかもがうまくいかなかった。

夫が病院に迎えに来て、車に乗り込もうとすると、助手席がとてつもなく高い位置にある気がして必死でよじ登るようにして座った。夫は私には目を向けず、荷物を積み込んでドアを閉め走り出した途端、荷物の多さに不満を言ってから、いつもと違うイベントがあると自分の体調が悪くなることを延々と語り始めた。そうか、私が帰ることは、この人にとって不快なイベントなんだ。熱烈不歓迎。最初のハードルは、運転免許のことではなくて、この夫とどう向き合うかだったのだ。

5か月ぶりの我が家だ。家の駐車場で車を怖々降りると、目の前に玄関があるのに行けない。30センチほどの段差がある。病気前は考えたことなかった。ぴょん、と飛んで玄関まで5秒だった。その段差を避けるためには、駐車場から一旦道路に出て門まで遠回りをしなければならない。門扉を開けるにも小さな一段。玄関にたどり着くまでに三段。玄関の外に、靴や秋に収穫した落花生や、鉢植えがたくさんある。もう一人の私が分離して片づけしたがっている。でも無理、無理。そして、靴をかき分け家の中に入ろうとした。でも、立ち尽くすだけだ。靴が脱げない。病院で靴を脱いだり履いたりする時はベッドに座っていた。座った姿勢でないと靴が脱げないことに気が付いて、ショックだった。夫に「椅子がないと靴が脱げない。」と言うと、さすがに夫もショックを受けている様子だった。
私は、椅子が置いてあった場所を思い出して夫に玄関まで持ってきてもらい、土足で家に入ってからその椅子に座って靴を脱いだ。

廊下は片づけてあった。病院の相談員さんも、理学療法士さんも、ケアマネさんも、繰り返し助言してくれて、夫はがんばって片づけたようだ。
廊下に手すりはない。壁に両手を付いてカニ歩きした。一つ目の病院のリハビリで、家の裏にある畑にたどり着く練習と言ってよくやった動き。リビングのドアを開けると鳥がいた。夫がペットとしてかわいがっている鳥が鳥かごの中で元気に飛び回っている。その横のテーブルの上には無線機。機械が増えている。そういえば、あれほど言ったのに玄関に大きな無線機が置いたままで、狭くて靴を脱ぐのが怖かった。私が救急車で運ばれた時に、救急隊員があれがあると危ないので移動してほしいと言ったのに、夫が重いから無理ですと言って移動を拒否した機械がまだあった。
退院の数日前、遠くで一人暮らしする娘も、階段下にあるその機械が危ないからお父さんに注意したけど、聞いてくれないとラインに書いていた。

2階には、仕事部屋として使っている娘の部屋と、息子の部屋、和室の寝室がある。階段に手すりはないけど、一段ずつ登ってみたら意外に登れた。娘の部屋も息子の部屋も、荷物がたくさん置いてある。後を追いかけてきた夫が「ケアマネが急に家に来るって言うから、廊下のもんそこにとりあえず置いただけや。」と説明するが、とりあえず置いたなら、また廊下に置かれるということか。寝室を見ると私の布団がない。寝室は畳に布団を敷いて寝ていたので、寝起きが大変だから娘の部屋のベッドで寝起きしたいと私が言うと、夫は、何かあったら分からんから寝室で寝ろ、ただし布団はどれか分からんと言う。意味分からん。息子の部屋に私の物をとりあえず突っ込んだけど、だいぶ前のことだから忘れたということらしい。

この後も同様のことが起こり続ける。
夫と鳥の居場所は快適にしてあるが、私と子どもたちの居場所はここにない。でも、私は何も文句を言わない。
私は私の内側にマグマを溜めていた。もうすぐ爆発すると思いながらも4日溜めた。そして4日目の夜中に爆発した。
深夜にフェリーで北海道の出張先に向かう息子とチャットで会話をした後階段を登ると、夫に「死ね。」と言われた。私が夜ふかしするのが気になって自分が眠れないから腹を立てたのだ。明日息子に電話をかけて怒ってやると夫が言ったのを聞いて、2階の階段の踊り場にいた私は「死んだらよかったー!」と近所中に聞こえる大声で叫んでやった。叫んで左側が脱力して倒れた。このまま死ぬかもしれないと思ったけれど、子どもたちの未来はもう少し見てみたい。夫が走って来て謝って私を助け起こして抱きしめたが、右側の力をいっぱい使って振りほどいた。その時に左側も動いたのだ。死ななかった。

次の日から私は自立への歩みを進めて行った。自分で布団を運んで娘の部屋で寝るようにした。椅子の移動も自分ですることにした。できる家事は「リハビリになるから。」と言ってこなし、こけそうなことだったり危ないことは、夫に「これは無理だからやって。」と言って、やってもらいたいことを具体的に指示するようにした。病気前とは違う向き合い方が始まった。私は一人で車を運転して、仕事を再開するための準備を着々と進めている。

院長先生に診察してもらったのはその6日後だ。病院の帰りに、車を運転し帰る途中で洗車をした。息子が5年間使い倒して30万キロ近くの総走行距離となっている車だが、職場復帰の一日目はこの車で行くことになっているから、きれいにする。洗車機から出た後の拭き上げも自分で、丁寧にやった。その後買い物しようとスーパーの駐車場に車を停めると夫からチャットが届いていることに気が付いた。「エアコン切ってサッシ開けたら、ヘビがシュッて家の中に入った。シマヘビや。マムシとちごた。」どういうことかと思って電話をしてみると開口一番、「ワシ、母さん(私のことをそう呼ぶ。私も「父さん」呼ぶからおあいこ)の命救ったった。」なんでやねん。「母さんがおんなじ目に遭ったら血圧上がって死んどる。」そんなことで恩売りされたくないと思ってこう言ってやった。「昔私が夜中に雨戸閉めようとしてサッシからヘビ入ってきた時に騒いだ?落ち着いてたやろ。そんなくらいで血圧上がらんし、恩もいらん。」

買い物を終えて家に帰ると、リビングに鳥がいない。2階の夫の寝室の、病気前に私が作ってやった鳥の寝室スペースに避難させているようだ。夫が子どもの頃、飼ってた鳥がヘビに食べられたことがあるらしい。リビングのガラス戸は夜まで隙間を開けたままだった。夫はヘビが勝手に出ていくように道を開けていると言うが、庭で蓮を栽培していて水場があるからか蚊がどんどん入ってくる。でも、その日夫は無線機の前に座り「ハローシーキューシーキュー」の音を響かせることはなかった。「ヘビ来よるかもしれん。」と夫が言うので、私は「そらそうや。夜に口笛吹いたらヘビ来る言うやろ。」と言ってやった。
家の中には、無線やオーディオ関係のコードがいっぱい這っている。「あれ、ヘビちゃうか。」何度も言って夫を脅かせてやった。愉快痛快。
笑った、笑った。いっぱい笑った。私は元気。ヘビが出たらつついて外に出せるように、足元をしっかり見ながら歩いている。


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