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『陰翳礼讃』をよむ

ことしの春。『陰影礼賛をよむ』と題した私家版小冊子を作成しました。

2022年から恩師 面出薫さんとともに不定期ながら谷崎潤一郎『陰影礼賛』を再読する時間をもうけています。この『陰影礼賛をよむ』は中村にとっての、その一年の成果をまとめた中間報告書のようなものです。いや、はたしてその一年なのか。おもえば2011年ごろから鈴木大拙や柳宗悦に触れはじめて以来の経験のようにもおもえるし、もっといえば大学3・4年次に在籍した武蔵野美術大学 面出薫ゼミからのことなのかもしれません。

この内容はことしの5月に開催された胡桃堂喫茶店の読書会『日本の美をよむ』(モデレータ: 今田順+中村将大)のなかあつかった、谷崎潤一郎『陰影礼賛』の項ともおおきくかさなります。じつは当日、会場にて『陰影礼賛をよむ』冊子を頒布しているので、こうしてnoteで公開するとなるとすこし恐縮です。したがってここでは、まえがきや口絵、あとがきを削除し、本編のみ掲載しています。

はたして、これがどのくらいのものなのか。つまり、なかなかいい線をいったプロトタイピングなのか。まだまだ未熟な段階なのか、それとも見当ちがいの記録なのか。今後さまざまな経験を得た将来、これがどうみえるのか。それは事後的にはわかりません。まだ濾過される以前の段階。いずれにせよ、中間報告的なる現状まだ未分のものであることだけは、まちがいありません。

『陰翳礼讃』をよむ

谷崎潤一郎による随筆『陰翳礼讃』は、谷崎を代表する随筆のひとつであり、近代化する日本のようすをとらえた貴重な記録ともいえるでしょう。

俗に——近代化のなか失われつつある、伝統的なる日本のようすを「陰影」をつうじて再発見した——とされる一冊。では、そこで谷崎が語らんとした日本や伝統、そして陰影とは、なにを差すのか。そして、その背景にはなにがあるのか。『陰翳礼讃』の前後にある、脈々とつづく文脈とは、いったいなにか? ここからはあらためて、この名随筆を読みといてゆこうとかんがえています。

2000年代の『陰翳礼讃』リヴァイヴァル

筆者が『陰翳礼讃』をはじめて読んだのは、2000年代なかごろ、大学生のころでした。なぜか。その理由は明解です。いわば当時一線のデザイナーや建築家たちが、異口同音にこの書物を勧めていました。

例をあげてゆけば、プロダクトデザイナーの深澤直人さん、グラフィックデザイナーの原研哉さん、建築家の内藤廣さんにジャン・ヌーヴェル、そして照明デザイナーの面出薫さん。視点や解釈はさまざまであれ、2000年代になり1940年代から50年代うまれのデザイン関係者が、こうして同時期に一様に紹介・引用していたことは、とても興味ぶかい事実です。

いわば20世紀なかば。モダニズムが成熟する時代にうまれ、高度経済成長期からバブル経済期にかけ仕事をはじめ、その当時の時点、すでに大御所とよべる地位にいた面々。21世紀のはじまりのころ、この時期、すでに刊行から70年を経ていた『陰翳礼讃』のなにが彼らに響いたのでしょうか。

『陰翳礼讃』の時代と谷崎潤一郎

さて。本格的にはなしをはじめるまえに、谷崎潤一郎と『陰翳礼讃』について、すこし整理をしておきましょう。

『陰翳礼讃』は、小説家 谷崎潤一郎による随筆です。雑誌『経済往来』の連載として、1933年から1934年にかけ執筆されました。ちょうど第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだの時期にあたり、明治元年からかぞえると65年の時間が経っています。

現在にいきるわたしたちにとって、見落としがちなのは『陰翳礼讃』が執筆された時代と、いまの近さかもしれません。江戸時代はとうの昔。明治の近代化はすでに終了し、世界大戦を経てすでに元号は昭和となっているころ、この随筆は記されています。

またその当時、谷崎が拠点としていたのは関西です。谷崎は1923年の関東大震災をきっかけに、東京から関西に移住します。生来の引越し癖ゆえ、関西のなかでもこまかに拠点変化があるのですが、いずれにせよ『陰翳礼讃』を記した時期は、移住から十年目をむかえています。

すでに作家としての地位を確立していた谷崎は、この当時、経済的にも余裕があったようで、関西でさまざまな遊びを経験してゆきます。そうしてみると、『陰翳礼讃』にある、場や味覚についてのさまざまな経験と、それについてのはなしは、どこか無邪気で、やや浮かれたようすにもみてとれます。そこには、いまでいうところのインスタグラマーみたいな感覚も、すくなからずあったのかもしれません。

ちなみに雑誌『経済往来』の内容をみてみれば、いまでいうところの『プレジデント』誌のようなもの。はやいはなし、元気なおじさん方が愛読するような内容です。そうした意味では、『陰翳礼讃』は書き手としても、出版側としても、ルーティンワークとして淡々と制作したのかもしれません。つまり、アジテーションふくめた課題提起だとか、高尚な伝統文化や思想を後世につたえる……というような、鼻息荒いものではなかったのかもしれない。

もちろんそれは『陰翳礼讃』が、浅いものというわけではありません。むしろ、肩の力をぬき、軽やかに筆をはしらせたゆえ、おのずから、さまざまな未然のもの——その背景やおもい——が内包されているといえます。むしろ、そうして厳格なテクストでないからこそ、読者おのおのが解釈したり、展開する余地があるのではないでしょうか。こうして刊行から90年がすぎた時代にいきるわたしたちが、あらためて咀嚼する機会があっても、いいことでしょう。

さて現在、京阪神モダニズム、阪神間モダニズムと呼称されるように、当時は京都、大阪、神戸における近代文化の隆盛期にあたります。西洋風のレンガ造、コンクリート造の建造物が官民それぞれの主要な施設に採用され、あらたな風景がひと段落していたころ。現在もなお、この時代の建造物はおおく現存します。華やかなる、西洋文明を謳歌したなごりは、いまにのこるものです。

神戸 旧居留地

ちなみに、こうした関西で芽生えた固有の西洋文化。そのドキュメントが、なにより後期谷崎の代表作『細雪』(1936)です。ちなみに『陰翳礼讃』の同時期に制作された小説作品には『盲目物語』(1932)と『春琴抄』(1933)があります。いずれも盲人が関わるはなし。陰影にかんする随筆と同時期に、こうしたはなしが記されていることは、けっして偶然ではないはず(これについての考察は、あらためて触れてゆきます)ほかには文章作成のノウハウについて解説した『文章読本』(1933)もあります。

さて、当時の関西で展開されていた意匠様式は、どんなものがあったでしょうか。そこでは、いわゆるインターナショナルスタイルとされるミニマルな意匠・構造をもったデザイン様式のすこしまえ。西洋の、つまり異なる文化圏の意匠が色濃く反映されているものです。ともすれば現在以上に、西洋的だったかもしれない時代。『陰翳礼讃』の背景にはそうしたものが存在します。


読書会『日本の美をよむ』

2017年から2022年にかけ、読書会『日本の美をよむ』に参加しました。これは今田順さんにより企画された催しです。2017年から2020年にかけては、今田さんが当時つとめられていた東京国分寺 胡桃堂喫茶店・書店で、その後、今田さんに移住にあわせ広島皆賀 ミナガルデンで開催されました。東京の会が第一シーズン、広島の会が第二シーズンというかたちで、それぞれおなじような内容で進行しています。

この読書会は、日本の近代化のなか残されたテクストに触れながら、それらに通じる根源的なるものを模索してゆく試みでした。ここで取りあげたものは岡倉覚三『茶の本』(‘The Book of Tea’, 1906年)、夏目漱石『草枕』(1906年)、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(1933年)、柳宗悦『民藝四十年』(1958年)、和辻哲郎『風土』(1935年)、岡本太郎『日本の伝統』(1956年)、『沖縄文化論』(1961年)の合計7冊。

いずれも明治から昭和にかけ記された書物たち。著名な人物によるものですが、これらを身近に感じているひとは、なかなかすくないのかもしれません。じっさい開催前は「毎回5、6人で細々と進めてゆく感じですかね……」と、今田さんとともに想像していたものです。しかし蓋を開けてみれば大盛況。会を重ねるごとに参加者はふえ、三回目となった『陰翳礼讃』においては30名ちかくの参加者となり、かなりの熱をおびてゆくことになりました。

そればかりか、ほんらい最終回としていた岡本太郎の読書会をおえると、こんどは参加者のほうから「この本をみんなで読みましょう」「まだ、あの人物を取りあげないことには、終わらないのではないでしょうか」……と、企画延長をもとめる声があがりました。結果として鈴木大拙『東洋的な見方』(1963年)、柳田國男『遠野物語』(1910年)、白洲正子『かくれ里』(1971年)の三冊が追加され、さらには総集編として今田さんと筆者で振り返る機会までつづき、2020年に都合10回の第一シーズンを終えることとなりました。

当初は今田さんの進行に、筆者が茶々をいれるかたちで構成されていましたが、しだいに参加者それぞれのみかたが交錯する場となってゆき、追加実施された鈴木大拙、柳田國男、白洲正子の読書会は、それまで参加者だった面々がモデレータを務めることになります。その後、第二シーズンは広島を拠点としてオンライン/オフラインのハイブリット開催となり、2022年2月に実施された鈴木大拙の会で、いったんのひと段落をしています。ここでの経験が筆者自身にとって『陰翳礼讃』はもちろん、彼らに通底する根源的なるものへの解像度があがったことは、まちがいありません。

この『日本の美をよむ』シリーズは、なにも専門家どうしの勉強会ではありません。いわば、まちのブックカフェやイベントスペースで開催された、ひとつの催しです。参加者はもちろん、企画進行を担当された今田順さんも、その相手役となった筆者も、近代日本思想や文学において素人にすぎません。みなそれぞれの仕事のかたわらで、この催しを定期的なたのしみとしていたのです。

では、なぜそうして毎回の参加者数や場の雰囲気にあったように、おおくのかたが興味感心をもつことになったのでしょうか。そしてこの時期、世間ではあきらかに民藝や工芸のリヴァイヴァルとよべるうごきがあり、柳宗悦や鈴木大拙、岡本太郎らがメディアで取りあげられ、本人の著作や関連図書が新刊として、あるいは再販として刊行される傾向がありました。21世紀となり20年をむかえようとする段階で、いったいなにがおこっていたのでしょう。おいおい紐解いてゆきたいとかんがえています。

さて、『陰翳礼讃』をおおくのかたと同時に読むという経験は、なかなかできることではない、ありがたい機会でした。そのとき、ふとおもったことは、ともすればみな「過剰な闇」を想像しているのではないか? ということでした。筆者はほかにも専門学校や大学の授業でも『陰翳礼讃』をあつかい、おおくのかたとともに、それを読む場を何度も設けています。そこでもおなじように、強烈なまでの暗さを描かれる傾向にあります。筆者個人としては、そこで想像される暗さは、むしろ西洋的な闇にもおもえるのです。それは近代以降、わたしたちの陰影感覚がずいぶん西洋化している証拠なのかもしれません。

近代と西洋——文化と文明

日本における近代化とは、端的にいえば西洋化であるといえます。『陰翳礼讃』から、すこし引用してみましょう。

そう云うことを考えるのは小説家の空想であって、もはや今日になってしまった以上、もう一度逆戻りをしてやり直す訳に行かないことは分りきっている。だから私の云うことは、今更不可能事を願い、愚痴をこぼすのに過ぎないのであるが、愚痴は愚痴として、とにかく我等が西洋人に比べてどのくらい損をしているかと云うことは、考えてみても差支えあるまい。つまり、一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起っていると思われる。

谷崎潤一郎『陰影礼賛』

谷崎の指摘するように、明治以降の文明開花とはすなわち過去との切断でもありました。たとえば、明治維新といえばなんでしょう? たとえば大政奉還からの帝国議会の成立。あるいは資本主義のはじまり、国外との交易、それから植民地支配……というキーワードが浮かびます。

そしてこれは日本にかぎらず、当時、先進国家といわれた国々おいて、すくなからず共通していた条件でもあります。否、こうした条件こそが近代文明そのものであったともいえます。くわえて、すでに産業革命が完了した時代であることも重要です。要約すると……

■国際化の時代——インターナショナルであること
■資本主義の時代——現代につづくビジネルモデルとライフスタイルの成立
■産業革命後の時代——機械生産でありモノが大量生産・複製されること
■都市の時代——政治・経済・産業の中心部に人口が集中したこと

つまり文明的であるということは、インターナショナルな構造を受容することであり、ゆえに文化的なるものは相対的に背景化してゆきます。

さて、ここですこし文化と文明という語を整理しておきます。日本語としてみればすこし似た感じをうけますが、それぞれCultureとCivilizationというように、じっさいはかなりの別物です。文化、つまりカルチャーの語源は田畑を耕すという意味、文明、シビリゼーションは野蛮から抜け出すという意味になります。「あのひとは何々文化圏」とはいうけれど、けっして文明圏とはいわない。あるいは文明開花とはいっても、文化開花とはいいません。つまり文化は風土や地域の影響を必然的に受けるし、相対的にちいさな集団のできごとといえる。いっぽうで文明は地域や風土を飛び越え、インターナショナルなものとなってゆきます。

たとえばヨーロッパにおいては英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語……と、地域それぞれに独特の言語があります。これは文化といえます。しかし、それを表記するアルファベットは共通している。これは文明といえるでしょう。つまり文明は国境を越え、インターナショナルなものとなる。それは近代であることの条件、そのものといえます。つまり近代とは、文化ではなく文明なるものを目指した時代といえます。いっぽう文化は地域性や私的なるもの、ちいさな集団を象徴するものです。

民族衣装などをみればシルエットはもちろん、そこに施されている模様や素材まで、その地域を象徴するものになります。近代の指向は、ことデザインの領域においても建築家 アドルフ・ロースいうところの「装飾は罪悪である」(1908年)ということばに象徴されています。しかしいずれの文明においても、そのはじまりをたどってゆけば、それを産んだ文化にたどり着くことになります。たとえばアルファベットは、ローマ文字にその源流をみることになります。そしてなにより、わたしたちのふだんもちいる日本語は、まったくことなる文化圏から発生したものです。

そしてこれはなにも文字のかたちのように、具体化したものばかりがその対象でもありません。思想や精神、それにもとづく視点といった形而上のものにいたるありとあらゆるものが、身体化された文化として、文明の根源に内包されています。それでは現在、わたしたちの日常、それをささえる文明とは、いったいどこの文化からきたものか? 先の引用のなかにある、谷崎の指摘は非常に示唆的です。

過剰な闇?

ではなぜ『陰翳礼讃』を読んだひとは、過剰な闇を想像する傾向があるのでしょうか。そこでは、どこか闇と光を対比させるきらいをみることがあります。それはどこか、レンブラント・ファン・レインやジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画作品にある闇を想起するもの。深い闇があることで、スポットライトのような光線効果が、いっそうドラマティックに際立つものです。たしかに谷崎と同時代をいきた、高島野十郎(1890年—1975年)のえがく蝋燭の絵や、そのすこし上の世代である小林清親(1847年—1915年)をはじめとする光線画などは、そうして闇と光を対比的に切り取る傾向にあります。しかし、ここで表現されたものは、いずれも近代の感覚、つまり西洋的なる闇のようにもみえるのです。

近代以降、わたしたちのなかには、必然的に西洋的なる感覚や基準が、おのずから身体化されています。たとえば二元論、二元的価値観も、その一例でしょう。わかるとは、わけること。なにかを分別し、比較したり、タスク化することで、わたしたちはものごとを認識したり、判断することができます。そのいっぽう、曖昧さやあいだの感覚というものは、どちらかといえば消極的にとらえられるきらいがあります。

しかし『陰翳礼讃』に描かれる闇というのは、つぶさにみれば、ぼんやりとした闇にみえてくるのです。つまり、どこまでが闇で、どこからが光なのか区別のできない、非常にあいまいなるもの。そこにおいて闇と光は対比するふたつではなく、同一のひとつのものです。それは未分のひかりとも、未分の闇ともいえるでしょう。まさに陰影の状態です。

事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。

谷崎潤一郎『陰影礼賛』

ふたたび『陰翳礼讃』文中より引用しました。この一節からは、どこかぼんやりとした景色がうかびます。闇と光が対比されるのではなく、グラデーションとしてひとつの状況をうみだしているようす。谷崎がいわんとするのは、そのような陰影かもしれません。引用をつづけましょう。

西洋人は食器などにも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いて、ピカピカ光る様に研みがき立てるが、われわれはああ云う風に光るものを嫌う。われわれの方でも、湯沸しや、杯や、銚子等に銀製のものを用いることはあるけれども、ああ云う風に研き立てない。却って表面の光りが消えて、時代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって、心得のない下女などが、折角さびの乗って来た銀の器をピカピカに研いたりして、主人に叱られることがあるのは、何処の家庭でも起る事件である。近来、支那料理の食器は一般に錫製のものが使われているが、恐らく支那人はあれが古色を帯びて来るのを愛するのであろう。新しい時はアルミニュームに似た、あまり感じのいいものではないが、支那人が使うとああ云う風に時代をつけ、雅味のあるものにしてしまわなければ承知しない。そしてあの表面に詩の文句などが彫ってあるのも、肌が黒ずんで来るに従い、しっくりと似合うようになる。

谷崎潤一郎『陰影礼賛』

谷崎のいう西洋的なるものと、東洋的なるものの質感や表情のちがい。それは西洋的なるものはコントラストが明瞭であり、東洋的なるものはそれを避けるように、むしろ風景になじむという傾向にあることでしょう。それはまさに闇と光を異なるふたつの対比としてみるか、それとも同一のものとしてみるかの視点のちがいです。

もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。

谷崎潤一郎『陰影礼賛』

ここでは建築空間を墨絵にたとえ、そこにある陰影の階調についてふれています。では、なぜこうしたシームレスな陰影を、谷崎は「われわれ」のものとして紹介するのでしょうか。

未分のあかり——湿度と風土

長谷川等伯による『松林図屏風』は、室町時代に制作された水墨画です。谷崎の生きた時代より随分とさかのぼりますが、そのぶん原風景となるものかもしれません。まさに「西洋的な目」の延長である記録術たる写真でみれば、わかりづらいものですが、この『松林図屏風』をじっさいに目のあたりにすれば、不思議なリアリティをおぼえるものです。あたかも、その場にいるような湿度や温度を想起し、絵と自分の境目が曖昧になり、自分自身があたかもその場にいるような錯覚をおぼえます。さむい冬のある日の経験を想起するような感覚。そこにはインスタレーション的な情報量が存在します。

長谷川等伯『松林図屏風』

これとほぼおなじころ、西洋ではルネサンスの時代にあたります。ここで成立した透視図法や解剖学はまさに絵画や造形を科学的に構築するこころみです。レオナルド・ダヴィンチによる『最後の晩餐』やラファエロ・サンティ『アテナイの学堂』など、この時代・様式の絵画は、そうしたメソッドがもちいられ、写実的な描写によるリアリティが追求されています。しかし透視図法で描かれた絵画は、鑑賞者がその視点の中心にいなければ正確にみることができません。必然的に絵画と鑑賞者の関係をわけることになります。いっけんすれば、ルネサンス期の美術は、現代的にみてもリアリティある描写をしています。それは視覚的リアリティといえるものです。しかし、ぼんやりとした『松林図屏風』もまた、それとはことなる、ある種のリアリティが成立しているとみることができます。

ルネサンスのころ、レオン・バティスタ・アルベルティによる『絵画論』が発表されています。ここにある「面の上に点が置かれ、点と点を結べば線となり、それの移動が面となる」という趣旨の造形要素の分解と理解は、近代においてヴァシリー・カンディンスキーがおこなったものと通底します。現在でも美術大学や美大受験予備校などでは、造形要素として点、線、面と、その関係性、概念をおそわることからはじまります。おなじくAdobe IllustratorやPhotoshopのような造形アプリケーションにあるレイヤー構造やベジェ曲線、それによるオブジェクトの関係性もまた、その延長にある。ルネサンスはコンピュータをつかわないながらも、そのアイデアにおいて非常にデジタル的です——というよりも、デジタルの根源をみてゆけば、ここにたどりつくことになるでしょう。

これは造形要素を二元的に因数分解してゆき、それぞれを定義しながら、関係性をたばね、構造化しているといえます。つまりルネサンスから近代造形、そしてコンピュータによる造形は連綿とひとつの線でつながっているものです。まず「面」があり、そのうえに「点」が存在するみかた。つまり、その根源がすでに二元的な関係になっています。こうしてみれば、ルネサンスはなにも過去のはなしではなく、現在にも脈々とつづくそれ以降のOSたる存在といえるかもしれません。

いっぽう『松林図屏風』は水墨画です。それは墨が和紙に滲んでいる状態。墨自体も水とのバランスで濃淡や、にじみ、かすれがうまれます。面のうえの点というより、画面とマテリアルの関係が、そもそも不可分なのです。そこにある和紙に墨はにじむ。筆のかすれは鍛錬によりある程度コントロールできるようにはなるかもしれませんが、すくなからずの偶然性がおおく内包されます。それは作者が描いているのか、状況それ自体がえがいているのかわからない状態ともいえます。それはつくり手・つくられる側という対立構造ではなく、相互の関係のなかでできあがってゆくものです。そうした意味で東洋の水墨画は、絵画と鑑賞者ばかりでなく、それができるプロセスがすでに不可分です。

たとえば、湿度の高い日。水滴まとわりついたうつわを手にしたとき、ふとなかの水、そのものにふれているような錯覚をおぼえたことがあります。水とうつわ、そして自分がいったいとなるような感覚。実際に湿度が高い日は外気と肌の境目が曖昧になることがある。谷崎の『陰翳礼讃』は、光と闇ではなく、あくまでも陰影です。場と時間がある。羊羹や漆、あるいは厠などなど、そこでは固有のものではなく、それがおかれるたたずまいや、時間をふくめた状況でかたられます。まさにアンビエントな状態といえるのではないでしょうか。

さて僕自身は、年末になるとよく北陸と京都にでかけます。そこではときおり、水墨画のような景色にであうことがあります。長谷川等伯もまた北陸にうまれ京都にうつった人物です。おそらく、じっさいにこうした風景をみているのではないでしょうか。そして、これを写そうとしたとき、どんな表現が適切かとかんがえれば、しぜんと和紙と墨がおもいうかぶ。水墨画よりさきに、そうした風景が存在していたのでしょう。マテリアルもまた風土に最適化される。

さて、言語や音楽においては音韻と音響の関係が存在します。音韻とは言葉の意味やドレミファソラシドと記号化できるものです。これはどんな楽器であれ共通する情報です。いっぽう、音響とはなしかたの癖やニュアンス、楽器個々の音色、それが演奏される場・環境の響きなどをふくめた情報を差します。ルネサンス絵画は音韻的、『松林図屏風』は音響的なリアリティとみることができます。

『風土』において和辻哲郎が指摘したように、東洋とはモンスーン地域にあたります。とりわけ日本は島国であり、さらには国土の7割を山が占める。湿度ある潤質な環境です。宙をただよう気体が、ひかりをこまやかに拡散し、やわらかなにぶいひかりをうみだす。それはまた、闇と光の境目が曖昧になり、まさにひとつの陰影となった状態です。さらにいえば、こうしてちいさな水の粒子にみたされることで、ひととひと個々のもの、そして環境が一体化する感覚さえおぼえてしまう。谷崎のいう陰影を解く鍵のひとつは、湿度かもしれません。

未分とはなにか?

対比ではなく、ひとつの存在となること。それは二元的なみかたに対する未分という視点です。それでは未分とは、いったいなんでしょうか。鈴木大拙(1870年—1966年)のことばを引いてみます。

西洋の人々は、物が二つに分かれてからの世界に腰をすえて、それから物事を考える。東洋は大体これに反して、物のまだ二分しないところから、考えはじめる……つまりは、西は二分性の考え方、感じ方のところに立脚していることがわかる。そうして東は、そのまだ分かれぬところ、むずかしくいうと朕兆未分已然に、無意識であろうが、そこに目をつけているということになる……東洋的考え方、感じ方——それが無意識であっても、何でもかまわない——それを護立てることによって、二分性文化の不備を補足してゆかねばならぬのだ。

鈴木大拙『東洋思想の不二性』

大拙のはなしをつらぬくのは、まさに未分です。それは般若心経にある「色即是空 空即是色」の状態ともいえます。大拙が指摘するには、西洋の思想の根底には二元論——つまりYes / No、主体と客体を分別することにあるといいます。

なお大拙のいう西洋は、かなり漠然としてはいますが、おそらくはヨーロッパとアメリカ、それからキリスト教と哲学あたりを指していると推測されます。そしてそれが科学や個人主義といった近代のできごとに、通底するものとみている傾向があります。そしてこの見方は、谷崎が『陰翳礼讃』の指摘するものと、そのままかさなります。

二元論とは白黒はっきりつけるということ。つまり「これ」と「これではない」という判断の状態。判断した結果、YesはNoではないものとなり、たとえるなら白と黒が別物となる状態です。いっぽうで未分は、それを区別しない。おなじものとなること。YesかNoか。ものごとを断定することはできても、じっさい完全にいいきることはむずかしい。こうした経験はおおくのひとがあることでしょう。つぶさにみれば「ゆらぎ」が存在するのは当然のことかもしれません。

白と黒は別物ではなく、あいだに陰影——グレーの階調——を、みいだすことでおなじものとなる。じっさい精緻にみてゆけば、どこまでが白で、どこからが黒かわけられなくなります。その状態においてもシームレスな連続したもの、ひとつのものとみることもできるし、1, 2……と二元論的に数値化してみてゆくこともできます。あるできごとを「わけて」理解してゆくか、それともひとつとしてみるか。こうして近代以降、主流となった西洋的見方つまり二元論にたいし、未分という視点があることを指摘しているのが大拙のかんがえです。

「わかる」のもとはわけるであり、西洋知はすなわち分別知といえます。分別がつくようになれば、人間として一人前というものです。ちなみに「あいだ」をみる視点としてレンマというものも存在します。レンマが1で、ジレンマが2、トリレンマが3。ただしレンマに関しては、あいだというニュアンスもあり、それゆえ分別が前提になっているかもしれません。この点、未分とレンマは同様というより、ニアイコールという認識が適切とかんがえます。未分は「わかれたものをひとつにみる」とことであり、どうじに「わかれる以前をみる」という性質があります。

あらためて『陰翳礼讃』を引用します。

だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

谷崎潤一郎『陰影礼賛』

ここでは主客が溶けた状態であることがみられます。羊羹そのものが美しいのではなく、谷崎は羊羹があるその状況に着目している。そして羊羹——漆器——空間、そこにあるさまざまな要素——ひかり——陰影——そしてそれをふくむ人物がわかれることなく、一体となったようすがうかがえます。またそれは人物にとってみれば、視覚をこえた経験となります。環境音楽をAmbient Musicといいますが、これはまさにアンビエントな状態といえるのではないでしょうか。

さて、ここで補足として、岡崎乾二郎『感覚のエデン——蛇に学ぶ』を引用します。これは歴史のなか、さまざまな画家にえがかれ、またテーマとなった「楽園追放」についての論考です。イヴに知恵の実をすすめているのが、蛇であることに着目されています。

エデンの国には「知恵の樹」と「生命の樹」があって、イヴとアダムは、食べてはいけないと言われた知恵の実を食べてしまう。ゆえに二人はエデンから追放される。旧約聖書の「楽園追放」のエピソードです。知恵の実を食べると直接、真理を認識できるようになる(中略)そして思い起こすべきは、この現世的な場所とは、知恵の実を食べた後に、楽園追放され辿り着いた世界だということです。

そのつど無数に感受されている感覚情報に、それぞれ同等の権利を認めるならば、それらは当然、一つの対象に収束されることもなく、同時に一つの空間や時間に、一緒にあるということもできなくなります。いわば、それらの無数の感覚の間に、真偽の違いも、真実の度合い=ヒエラルヒーもない(中略)けれど17世紀オランダの画家アルベルト・カイプが描いたこの絵をみてください(中略)動物たちがオルフェウスの弾く竪琴の音色に惹かれ近づいてくる。だが、そこにはあからさまな階層がある。彼の側にいるのは家畜たちです。野生になるにつれ動物たちは遠巻きにしている(中略)当然のように蛇の姿はここには見えません。なぜなら蛇には耳がないから。より正確に言えば、蛇の耳に当たる器官は皮膚内部に埋もれ、蛇は鼓膜も鼓室も持たない。つまり蛇は空気中の振動は聴こえず、地面を通じて伝わる振動しか捉えることができない。だから蛇の感覚はむしろ触覚的な感覚です。さらに言えば蛇は目もよくなく、すなわち五感の分節が明瞭ではないのです。蛇は空気を媒介せず音も視覚も、触覚もすべて距たりをもった感覚としてではなく、身体で直接知るのです。イヴに知恵の実を食べることを勧めたのが蛇であることは示唆的です。

岡崎乾二郎『感覚のエデン 岡崎乾二郎批評選集 vol.1』

近代、人々は視覚優先、つまりいかによく「みえるか?」という点に注力しながら進化したのかもしれません。しかしそれは必然的に「みる立場」と「みられる立場」にわけることとなります。人間の感覚器のなか、もっとも主体性がつよいのは視覚であるでしょう。音ににおい。おなじ場において聴覚や嗅覚であれば共有できるものですが、どんなに近くにいようとも、視覚はそうはいきません。

谷崎が『陰翳礼讃』と同時期、盲目をテーマにした『盲目物語』『春琴抄』を執筆していることは、けっして偶然ではないでしょう。谷崎の『陰翳礼讃』にあるのは、ひかりのあたる部分以外、つまり陰影をみいだしたことはもちろん、そうした視感覚以外も融解し一体化した状態、さらには自分自身と周辺もまた溶け、その場となった状態なのではないでしょうか。それは、視覚の優位性をおさえることで導かれるものです。

ルネサンスのひとびとが手がけた透視図法や解剖学は、いかにみえるか、あるいは、みえているものは、いかなる構造か?——という問いへの模索であるでしょう。現代においてもテレビやスマートフォン、カメラといった目の再現たる道具の解像度は日々あがりつづけ、白熱電球から蛍光灯、LEDと。人工照明はそれをささえるように光量があがりつづけています。これは近代においてみえることが、いかに重要であるかを示唆しています。

このしばらく、鉄道のホームには「白杖のひとがいたらサポートをお願いします」という趣旨の告知をみかけます。それは当然のことではありますが、反対にいえば、こうした公共性がつよい施設でさえ、視覚情報優先で整備されていることになるのではないでしょうか。谷崎の作品にあるように、かつて視覚障害者はもっとちかいところにいたのかもしれません。

さて大拙は、西洋には二元論的な発想があるからこそ、数学や化学・科学が発展したと指摘しています。いわく「分けて制する」ことです。分析分類しながら体系立てることは、まさに二元的思考の面目躍如といえます。谷崎は『陰翳礼讃』において「西洋のほうは順当な方向を巡って今日に到達したのであり、我等のほうは優秀な文明に逢着し……」という。西洋の順当な方向というのは、まさに西洋の神が「光あれ」と光と闇、神と人を分別したゆくすえともいえるでしょう。もちろん、これはどちらがすぐれているとか、そうしたことではなく、単純に性質の異なるものであるととらえてください。

環境——EnvironmentalとAmbient

あらためて場、つまり環境をどうとらえるか? ということについてのかんがえる必要がありそうです。環境問題というと、環境を保護する立場としての人間という具合になりますが、そこには環境と人間の対立構造がみえてきます。バウハウスにまなび、その後、オトル・アイヒャーらと1953年にデザイン学校 ウルム造形大学を設立し学長職についたマックス・ビルの発言を引用します。

「デザインとは——それがヴィジュアル・デザインであれ、プロダクト・デザインであれ、建築であれ——すべて環境デザインである」
マックス・ビル

バウハウスでは、同心円状にカリキュラムがしるされ、さまざまなデザインの総合としてビルディング、つまり建築が指標とされていました。ビルのいう環境はそれをより拡張したものというみかたができます。つまり、人間を中心としながら、家具があり、建築があり、都市がある……というような同心円状の環境です。ちょうどビルの活躍した20世紀なかば、日本をみれば丹下健三とその研究室が『東京計画1960』をかかげ、建築の拡張として都市をデザインの対象としていました。近代デザインをみれば、アーツアンドクラフツによる家、バウハウスによるビルディング、そして環境と、その対象範囲が明確に拡張しています。そして、そこでは環境をつくる立場である人間と、つくられる立場である環境という主従関係がうきぼりになります。あたらめて大拙のテクストを引用し、そこにある環境観をみてみます。

昔は石を羊にしたり、虎に見立てたり、また説法をして肯したりしたことがあった。が、近代の人々は何も殺風景になって、石は石でしかなくなった。人間と環境の区別が、生きたものと死んで居るものということになった。それで環境は克服すべきもの、克服されるもの、何か物質的に人間に役立つべきものとなった……如何にも情けない世界になって来た。

鈴木大拙『石』

ここで大拙のいう環境は、人間もまた環境のひとつであるというみかたです。まさに未分といえるもの。ビルの環境がEnvironmentalであれば、大拙はAmbientと認識するのが適切かもしれません。環境問題はEnvironmental Affair、環境音楽はAmbient Music。Environmentalは外的環境というニュアンスがつよいものです。それにたいしAmbientは対象化されない環境といえますし、それは『陰翳礼讃』の羊羹のくだり、あるいは『松林図屏風』の状態であり、和辻哲郎いうところの「風土」という範囲でもあるでしょう。

例えばゴスペルのように、何らかの場所を伴った音楽に一層興味がある。聞き手は、目当ての音楽を体験するためにはある場所に赴いて、そこの一部にならなくてはならないような音楽だ。そこで人は、全く異なる社会的・音響的な設定の中に入る。その音楽を包む、完全な背景が存在する。

ちょうど光の色や雨の音が環境の一部となるように、環境の一部として音楽を聞くという方法だ。

エリック・タム『ブライアン・イーノ』

アンビエントミュージックのパイオニア ブライアン・イーノのインタビューから引用しました。中心性をもち対象化された環境と、一体化した状態としての環境のちがい。イーノは音楽家ゆえ聴覚的なところからはなしがはじまりますが、これを陰影におきかえると、谷崎のはなしにつうじてくるのではないでしょうか。

二元論ではなく、未分であること。闇とひかりは対比されず、ひとつのものであること。湿度ある風土であること。それから、アンビエントとしての環境観。『陰翳礼讃』を紐解くと、そこには主体、つまり中心の不在ゆえに育まれた文化があることがわかります。これこそが、わたしたちに身体化されたOS(オペレーティングシステム)なのではないでしょうか。

近代以降のマニフェストであった、インターナショナルという条件。その欲望は20世紀のおわりにインターネットという、究極のテクノロジーを獲得することになりました。しかし、その文明が浮き彫りにしたのは、世界はいまなお、さまざまな、ちいさな文化の集合体であるという、きわめて当然の事実です。それはおよそ90年まえ。『陰翳礼讃』が記された時代とも状況がかさなります。明治からの近代化がひと段落した時代。そこで谷崎が記した課題意識は、現在のわたしたちにとって、いっそう有効なものとなっています。

参考資料
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫, 1995)
谷崎潤一郎『吉野葛・盲目物語』(新潮文庫, 1951)
谷崎潤一郎『春琴抄』(新潮文庫, 1951)
谷崎潤一郎『細雪』(中公文庫, 1983)
谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫, 1996)

岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー, 2014)
岡崎乾二郎『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房, 2018)
岡崎乾二郎『感覚のエデン 岡崎乾二郎批評選集 vol.1』(亜紀書房, 2021)
河野三男『評伝 活字とエリック・ギル』(朗文堂, 1999)
菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー』(文春文庫, 2009)
菊地成孔+大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校 上・下』(河出文庫, 2010)
鈴木大拙『禅と日本文化』(北川桃雄 訳, 岩波新書, 1964)
鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫, 1972)
鈴木大拙『新編 東洋的な見方』(上田閑照 編, 岩波文庫, 1997)
内藤廣『環境デザイン講義』(王国社, 2011)
原研哉『デザインのデザイン』(岩波書店, 2003)
向井周太郎『デザイン学 思索のコンステレーション』(武蔵野美術大学出版局, 2009)
面出薫+LPA『都市と建築の照明デザイン』(六耀社, 2005)
柳宗悦『新編 美の法門』(岩波文庫, 1995)和辻哲郎『風土 人間学考察』(岩波文庫, 1979)
ヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』(宮島久雄 訳, ちくま学芸文庫, 2017)
エリック・タム『ブライアン・イーノ』(小山 景子 訳, 水声社, 1994)
レオン・バッティスタ ・アルベルティ『絵画論』(三輪福松 訳, 中央公論美術出版, 1992)
東京国立博物館『没後400年 長谷川等伯』(2010)
『AXIS Vol.101』(2003)
『芸術新潮 2010年3月号』(2010)


5 November 2023
中村将大

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