居心地の悪さ

居心地の悪さ

前回の記事にて、「とりあえず半年新しい職場で頑張って様子を見る」と書いた。
そろそろ半年が経つ。気持ちがどう変わっているか検証したい。

■ あれから半年 ■
端的に言うと『何も変わっていない』。

入社2ヶ月目の前回は自転車通勤中、騒音の多い高架下で「あああああ~!!」と声を出していた。
今は家を出た時点で「死にてぇ!!」と叫んでいる。
今回記事を投稿するために前回の記事を読み直したのだが、今より前向きだしやる気も感じた。キラキラしている。
おそらく「半年後はもっと仕事に馴染んでテキパキとこなし、充実している自分」的な希望が少なからずもあったのだろう。
半年経った現在だが、中途半端に覚えているため忙しい時などついうっかり独断に走ったり、自分ではできていると思っていた作業が実はできていなかったり空回りが多く、今では入社初めの歓迎マジックも完全に消え、加えてその後有能な後輩が続々入って来たのもありもはやお荷物である。むしろ悪化してない?
とにかく職場に居づらい。居心地が悪い。

意地悪されているどころか親切丁寧に接して頂いてるのでより恐縮な訳だが、出勤時も仕事中も帰宅時も心臓が締まって痛いくらい辛い。帰宅後も思い出して苦しい。”ミスを反芻しない”と誓ったのに。

GW初日から口周りにヘルペスが連続で2箇所でき、連休後かかった医者に「なんか疲れることあった?」と聞かた。ストレスが体に現れてしまったようだ。
お金は欲しい。が、仕事に行きたくない。職場に出たくない。

ここの職場だけ特殊なのかと思い過去を振り返ってみたが、どうやら結婚後務めたパートに顕著なようだ。
こんな私だが二十代は事務が主体ながらちょっとしたデザイン作業や会社のインフラ整備に少し関わらせてもらうなど、自分の興味のある好きな分野の知識と経験が積まれていくのが嬉しかった。楽しみもあった。
その頃も叱られて空回りだったり失敗して怒られる事も多かったはずなのに、無条件に未来の可能性を信じていた。若いので時間もたっぷりあった。
好きな事で生きていける、と本気で信じていた。

■ 家庭を持ってからの就職 ■
結婚・出産を機に退職し、子育てから9年のブランクを経て40歳手前でデザインの仕事にパートで入った。
作ることは楽しかった。元々不勉強でデザインの基礎も知らない、センスもないのでお叱りを受ける事は多かったが、作る仕事はやはり楽しい。デザインの内容で厳しい意見をもらうのは胸は重くなっても苦ではなかった。

だがブランクの分働く勘が鈍っていたのか加齢なのか、元々うっかりした性質がより濃くなり、単純な誤字脱字からパソコン操作の大きなミス、指示の聞き間違いなど連発し、「こんなはずじゃなかったのに・・・」という事態が多かった。明らかに先方に迷惑をかけていた。社長は事務所に缶詰めが多く、やることなすこと監視下に置かれ、テキストを打つ間後ろで間違いがないか逐一確認された。間違いがあればその度お叱りを受け、どんどん自信がなくなっていた。自分のせいなのだが。
そのうち自主的に仕事をしたい気持ちより「怒られないようにしよう」だけ考えるようになった。作る仕事には相変わらず楽しさがあったが、職場自体は苦痛になっていった。

家庭との両立も難しかった。就業時間は朝9時から15時まで。残業はできない。仕事の日は学童保育に預けていたが子供は馴染めず毎日暴れる。担任の先生も学童の先生も「子供が納得していない。仕事をする事について考え直して欲しい」と顔を見る度訴えられた。

能力の低さで職場で萎縮し、学校との関係で帰ってからも休まらなかった。
子供が寝た9時から明け方までデザイン案を立てたり自分なりには頑張ったが、頑張りが結果にならなければただの徒労である。心が折れ、仕事を辞めた。

これ以降、”やりたい仕事”より家から近く、就業時間が短くて休みが取りやすいのが仕事選びの優先条件になった。
挑戦するのも家庭と両立できる範囲で。自分の能力の低さは十分わかったので冒険しようとは思わなくなった。
仕事内容に自分の好きな要素、興味を持てる要素はなくていい。ただ決まった作業を終え、平穏に過ごせればそれでいい。
そう、怒られなければいい。

■ 居心地悪さの正体 ■
デザインの会社で感じていた、あの居心地の悪さと今の居心地の悪さ。
どちらも怒られないようにひたすら上の人の顔色を伺うだけの時間。
加えて今度は不特定多数のお客様の顔色も増えている。そりゃ辛い。
居心地の悪さを感じ熱意を持って生きたいと願い会社を辞め新天地を目指し、行き場所を見いだせず流れでたどり着いた場所で相変わらず周りの顔色をうかがいやっぱり居心地が悪い。
場所だけ変えてもダメなのだ。私という人間が変わらない限り。

この話にオチはないんです。すみません。
文章を打ちながら思い出してみて改めて、ただグズグズ同じ事を繰り返しているだけだなとやっとわかる。
「これがしたい」がなく、ひたすら怒られたくないばかりなら、仕事も人生もつまらなくて当たり前だ。
私が変えるべきは場所ではなく、怒られようが嫌われようが生きたい自分として生きることではないだろうか。
では生きたい自分とは・・・?
若気の至りとはいえ、二十代の未来の可能性を信じていた自分はどこへ行ったのか。

明日も変わらず「死にてえ」と言いながら心臓を痛くし仕事に行くのだろう。
家庭との両立が難しい今、仕事に可能性を見つけるのはもう無理かもしれない。
それでもどこかに、自分が生きたい自分がいると信じなければ日々をこなしていけない。
夢も希望もないと生きていけない弱い人間だから。