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「∅」

これは空集合を表す数学記号だ。
そんなことは知ってるって?
では、これの読み方をご存知だろうか。

「ファイ」と読んだ人もいるかもしれない。高校の数学教師でさえ、この文字を「ファイ」と読むことがある。残念ながらそれは間違いである。

正解から言えば、この文字に正しい読み方は存在しない。つまり、この文字を声に出して読むことはできない。

それでも、あえて読むならばその意味からとって「空集合」或いは英語で「empty set」と読むことが一般的である。
文字の読み方の間違いによって模試で減点されるわけではないから、案外こういったことに関してはいい加減なことがまかり通っている。
例えば、同じ理由で「f'」を「エフプライム」ではなく「エフダッシュ」と読んだり、大文字の「A」を「キャピタルエー」でなく「ラージエー」と読む人も多いが、それらは正確な表現ではない。記号の読み方は数学的には本質ではないし、気にする人は少ない。しかし、そもそも文字に興味のある人間としては見過ごせない問題である。
ではまず、なぜ∅を「ファイ」と読んでしまうのか。それは多分次のような話を中学校なり高校なりで習ったことを覚えているからだろう。

集合Aとは、その元(要素)がよく定義された(well definedな)ものである。
したがって、集合Aの元の個数はAによって一意に定まる。Aに含まれる元の個数をn(A)としたとき、n(A)=0を満たす集合をA=ΦまたはA=∅と表し、このとき「集合Aは空集合である」という。

ここで、脳内で勝手に作ってしまういかにも怪しい式がある。つまり、
Φ=∅
である。これは危ない。注意力が散漫になってくるとこういうことをしてしまう。そして、この式からΦと∅は同じ記号だと考えてしまうのである。それはナンセンスである。二種の記号に同じ定義をいわば《勝手に》当てはめておいて、その二つの記号を等式で結び、そこから二つの記号は記号として同等のものだと思いこんでしまうのだからこんなにいい加減な話はない。こんなことを許したら、すべての記号が記号としての性質を失ってしまう。a=bという式からappleはbppleと書いても差し支えないのだと結論するようなものである。またそもそもA=Φと書くのは∅の文字がタイプできなかった時代に、印刷の都合で似た文字をおいただけであって、Φは∅の代用品に過ぎない。

かくして、∅はΦと混同される。
空集合の記号「∅」は数学の秘密結社ブルバギの会員で天才的な数学者アンドレ・ヴェイユ(妹は『重力と恩寵』で知られる哲学者のシモーヌ・ヴェイユ)によって考案された文字である。なんでも、ノルウェー語のアルファベットØを参考に作られたと言われている。ただし、ここでも注意しなければならないのは∅はあくまでØを元に作られた文字であって∅とØは別物だということだ。

それで、私は何が言いたいのか? なんてことはない。私の中の文系脳が言ったのだ。∅が寂しがってるのだと。今度、∅という文字を見かけたら「やあ、ファイ君」なんて寂しい人違いをしてあげないでほしいのだ。∅の名前を声に出して呼ぶことはできなくても、彼にはちゃんと「∅」という名前があるのだから。

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