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キースへリングの展示に行ってきて、泣きかけた話ーブログっぽい何か⑫

先日、森アーツセンターギャラリーにて実施されている「キース・へリング展 アートをストリートへ」という展示を見に行ったのでそれについての感想を書く記事です。

以前にも美術館に行き、感想を書いたことはあるのですが私は「ずぶのシロウト」ですので、なんかレベル高い感想はないのでぬるっとゆるっと読んでいただけると幸いです。

さて、今回の展示はキースへリングの人生をなぞらいながら、彼の一生を作品とともに追いかけるものでした。私はもともとキース・へリングが素人ながらも好きで、そのきっかけは親に小学生の時に連れてってもらった山梨の中村キース・へリング美術館に行ってからです。

ポップなアートだなって小学生ながら思いました。ただそこにはそれ以上の感情がありました。今回の展示はその「それ以上」の部分が自分の中で不透明ながらも明確化された? 展示でした。

身の上話を挟んだ個人的な感想では意味がわからないので、ちゃんと感想を書いていきます。

キースへリングの作品は私が思うに本当に2つにわけることが出来ると思いました。それは「メッセージ性を見出すモノ」と「メッセージについて考えされるモノ」の2つです。

わかりづらいですが、この2つは似ていて大きく異なります。

①まずは「メッセージ性を見出すモノ」からです。

キースへリングのモチーフとするものはポップで、何を書いているかはわかりますが、それが何を表しいるかわからないものばかりです。
例えば、輝く赤子にはどんな意味があるのでしょうか? 鰐ような口を持つ立った犬にはどんな意図があるのか?

正直に言えばわからないものばかりです。
ただこれは彼の意図にしたがっているものです。ここで彼の言葉を抜粋します。

アートとは何か 何を意味しているのか それは永遠の議論
アートの意味は アーティストのものじゃなくて
それを見る人が感じるもの
ある意味 鑑賞者もアーティストなんだ

この言葉に感銘をうけました。私は以前より作品のメッセージとは本人の手から離された瞬間から、それは作品を見た人の感受性に依存すると思っていました。それを大好きなキースへリングも言っていたなんて、それもアーティストという立場であるからこそ、ストリートアートという沢山の人の目に触れる作品を作った彼だからこそ、その重みは測りしてない。

作品をみて、そこに意味を見出すのはどんな形でもいい。いやもはや意味なんていらないのかもしれない言葉にもならないそのナニカを心の中に抱くだけでもいいのかもしれない。

美術鑑賞とはどこかそういう文章化された感想を強迫的に表現するべきという文化があるような気がする、そんな一種のハードルを感じていた素人の私にとって、この言葉と彼の作品群は私は何か救われた気がしました。


②次に「メッセージについて考えされるモノ」です。

彼の作品の中盤から出現する作品中の課題が、「AIDsの啓発」・「ジェンダー」などの啓蒙的な作品です。

そこには明確な意図があり、これまでの勢いのある線だけの作品ではなく、そこに明確なメッセージを言語で書く。
いわば、その言語というフィルターを見る人に渡してから、付随する作品を見せる。いや、恐らく言語もそこにある絵もあわせて作品なのだから、付随するという表現は間違いなのかもしれない。

どちらにせよ、言語と絵のセットの作品群は初期のブラックボードに描かれた彼の作品群とは一つ異なった部分を感じる。描かれているものはこれまでの彼の作品にも近似したものがあっても、明確なメッセージ性がある。

彼の作品はこういう作品は社会的なマイノリティ・社会的な弱者を社会へ啓発する。こういう人間もいるんだと広め認めさせるような作品でした。
そこにある絵はこれまで同様なポップな色調・ポップな絵柄で描かれているのに強いメッセージ性を感じてならない。

また私の個人的な感想ですが、私は自分がどこか社会的にマイノリティで弱者であることを感じることが度々ある。私は同性愛者でもAIDsに携わる人でもない。でも、大多数の人間と思考や趣味が異なる時や社会的地位のある人に意見を押し込まれる時にそれを感じる。「私の個人的」って書いたが、違いますね。誰もその瞬間を持っている。

いつだって長いモノにまかれて、川の流れる方向に泳いでいる人なんていない。誰もが、どこかの瞬間では「マイノリティ」で「弱者」なんだ。

それを思い出した状態で彼の作品を見ると、そんな「マイノリティ」で「弱者」でありながら社会へ啓蒙という戦い挑む彼はさながら勇者な気がした。そしたら、涙腺が緩くなった。
私も戦わなくてはならない時もあるんだろうと強く思えた。


最後に啓蒙という言葉を使ったので、とある現代のアーティストを出して話をしたい。

そう、「バンクシー」だ。
私はキースへリングを見ながら、もしも彼とバンクシーが出会ったらどうだったんだろうかと想起した。

バンクシーも公共物にステンシルアートを書き残していく。それが違法だとしても。そして、その作品には色んなメッセージ性がある。
時代が異なるだけで同じのようにも感じる。

似ていると私は思った。でも、大きくことなる部分がある。それはバンクシーはあくまで啓蒙思想家であり、キースへリングは美術家なんだと思う。

それのわかりやすいところが、キースへリングはポップショップを作ったことが言える。キースへリングは美術を身近なものにするべくして、ポップショップを作ったと語られていた。キースへリングは社会的なテーマを題材とした作品を生み出したと思う。

対して、バンクシーはSNSで共有されることを前提に作品を作り、身近なものだから広まる。また壊されることを前提に作り、作品が消えることを悪としないその考え方はキースへリングとは違うんじゃないかって思った。

ほかにもメディア露出などへの考え方も異なると思う。

あくまでは私の感想だが、作風は違えど、文章にすると似ていることをしている彼ら。でも、根源たる部分が違いそう。
憶測の領域からはでないがテーマとしては面白いと思う。

さて長々と書いたが私の感想はこんな感じだ。大分、とっ散らかってしまったが、ブログだからこんなものでは良いだろうか。

まあ何が言いたいかと言えば、山梨に行くのは大変だと思うので、是非六本木でやっているうちに是非、「キース・へリング展 アートをストリートへ」に行ってほしいということです。

写真:「キース・へリング展 アートをストリートへ」より

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