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困っている自覚がないかもしれないという、想像をする。

「助け合い」「お互い様」を言いつつも、
「他人に迷惑をかけないように(家族内でなんとかする)」
そういう、どこか矛盾した社会で育てられる日本。


よく「困ったら相談してね」というけれども、

困ることがどんなことなのかが、そもそも分からない時はあります。私は子ども時代にあって、身体をこわしたりしました。(あとは、すごく大きく心身削られることのみが、困ることだと思っていたかもしれない)

ふつうは乗り越えてるレベルだから。とか、
本気ならできるはず。とか、
周りはみんなそうしてるから。とか。

そのぐらい仕方ないよ。大丈夫だよ。。で、片づけられてしまう現実があり、

よほど訴えないと気づけない場合もあり、相談するしないに関わらず、困り事ってなかなか自覚できないのは、そういう環境があるからだと感じます。


でも、潜在的な困難に蓋をすることの20年後、30年後の弊害を、家族で実感している私としては、
そこがいちばん無視ができない部分でもあります。

もちろん本人のやる気とか、待つ事は必須なんだけど、、
それだけではない「防災」感覚がどこか欠けている気がしていて。

野菜とかで例えると、、、
殺虫剤まで撒く気はないけど、支柱はしてあげたいな、出来るだけ太陽を浴びたり水を吸いやすくしたいな。。そんなイメージです。

私も完璧じゃなくてもそういうバランスのある環境を与えてもらった気がしていて、

そして自分の出来ない事にしっかり挫折感を味わえたことがあり、その後の自己理解には繋がった気がしています。


そんな地味な経験でも、知恵やアイデアになることがあることも知りました。

知恵で「助け合う」ことができるのが、人間なのだろうなとも。

「知恵」ってそもそもが「知」と「恵み」なんだよね。

経験としてそれを知っていることは、ある意味恵まれているということなんだと思う。
それを繋いで循環していくことは、とても自然なことかなと。

できる・できないではなく、能力の差とかでもなく、

循環する適切なサポートが、私の理想かもしれません。

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