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【最終話】人生という景色の映り込んだ文章を

その後、私は会社員を続けながら詩人、やがてライターと名乗るようになった。

詩を書くことは、どこか新鮮でありながらも、懐かしい再会のような、不思議な感覚だった。そのことばの泉に触れながら、私自身も深く癒されていった。詩賞をいただいたり、雑誌に載せていただいたり、これが私の天職なのだろうか。そう思うこともあった。けれども、そんな私に、小さな次の転機が訪れる。それは、ある伝統工芸作家さんの取材記事を書いたときのこと。取材を終えて、その作家さんが私にこう言ったのだ。

「いつか、話した言葉が詩になるような詩人にね」

「話した言葉が詩になる」なんて素敵な言葉なのだろう。私はこの言葉がずっと忘れられなかった。当初は「詩人」としての私を励ます言葉だと思っていた。けれども、のちにライターの仕事をするようになって、作家さんのこの言葉に映り込んでいる景色は、別の意味をもっている。そう感じるようになった。

ライターとは、クライアントの話した言葉に、その人の詩の景色を見てとり、その景色を一緒に見たい人たちの心に溶け込む言葉をひき降ろす人

作家さんに直接確かめたわけではない。作家さんは話したことすら忘れているかもしれない。けれども、その作家さんは、ライターとしてやってきた詩人を名乗る私に、ライターとしての役目を教えてくれていたのではないか。そう思うのだ。

私たちは、たくさんの「種」を持って生まれてきている。「自分を信じて」と種たちは、私たちにいつも呼びかけてくれている。けれども、どの種がいつ、どこで芽吹くのか、その答えは与えられてはいない。自然界の土と同じく、私たちも自分という土を肥やし、種を蒔かねば芽吹きを迎える日はやってこない。土の中にいる種からは、地面の上は一体どんな世界が広がっているのかわからない。顔をのぞかせるのは、ものすごく不安だ。エネルギーもたくさん要る。芽を出したのに、それ以上成長しないこともある。その先も数多くの試練が待ち受けている。

私の人生に、詩や、ライティングの世界に飛び込む、そんなシナリオが存在するなんて、想像したこともなかった。けれども、あの日「文章の先生になれる」その言葉に何かを感じたのも、コーチではなく「詩を書きたい」と宣言した不思議も、私という土の中に潜んでいる「種」が「もう待ちきれないんだ、ボク」と、全力で叫んだ瞬間だったのかもしれない。

そうはいっても、この種はそう簡単に芽を出す種ではなかった。ことばの種もまた、たくさん蒔いていくしかないからだ。芽がでるもの、出ないもの、芽が出たけれど、萎れてしまったり、途中で枯れてしまうものもたくさんあった。それでも、この種だけは、育てることをあきらめずに続けてこられたし、これからも育て続けていく。人生の転機に直面した私を勇気づけてくれたのは、ことばであり、文章だったからだ。そして、これからの新しい転機を自ら綴ることができるのもまた、ことばであり、文章だからだ。

あきらめきれない何か。かつての自分が救われた何か。誰かからお願いされ続けている何か。商いやビジネスを始めるきっかけは人それぞれだ。ことばや文章は、自分のできること、経験してきたことで、困っている人に喜ばれ、貢献するカタチを与えることができる。こどもも大人も、思い立ったその日から、誰かに寄り添い、思いやり、勇気づけることができる。不器用でも、ちゃんと生きている、そんなことばが私は大好きだ。

ことばの向こうには、人がある。人生がある。この仕事に出会えた奇跡に感謝して、まだ見ぬ新しい景色を、今日もまた綴り出していこう。


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