狼渓ん家(ろーくんち)

2008年よりカリフォルニア在住。紆余曲折を経て今は現地の病院で医療事務の専門職に就い…

狼渓ん家(ろーくんち)

2008年よりカリフォルニア在住。紆余曲折を経て今は現地の病院で医療事務の専門職に就いています。アメリカ生活の体験談を中心に、語学/旅行/投資/美容/などについて綴ります。もっと気軽な発言はこちら👉https://twitter.com/roquenchi

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アメリカで生活できる英語を身につけるまで〜日本編・高校生時代〜

私の人生の分岐点と言える、留学を決断するまでに至る高校時代を振り返ってみました。 前回までの記事:幼少期編時代 / 小学生時代 / 中学生時代 高校生時代(2000年代中期)アメリカ移住を夢見る この頃になると、英語を話せるようになりたいだけではなく、現地に住みたいという願望が強くなっていました。中学生の頃に聴き始めた洋楽にどっぷりとハマっていた私は、英語を話せるだけでなく、自分の憧れているミュージシャンと仕事ができればなぁ…と壮大な夢を見るようになっていました。結果か

    • アメリカで生活できる英語を身につけるまで〜日本編・中学生時代〜

      今回は本格的に英語の学習を始めた中学生時代についてです。 前回までの記事はこちら! 日本編・幼少期 日本編・小学生時代 中学生時代(2000年代前半)1. 中学レベルの基礎学習 本格的な英語の勉強は中学生になって、英語が科目としてほぼ毎日の時間割に入ってから始まりました。アルファベットから始まり、基礎的な文法や地道に単語を覚えていく、誰もが通る王道の英語学習です。この頃は英文読解だけでなく、CDを使ったリスニングや、ディクテーションという英語を聞いてそれを書き出すと言っ

      • アメリカで生活できる英語を身につけるまで〜日本編・小学生時代〜

        前回からの引き続きで、今回は私の小学生時代と英語との関わりを振り返ってみます。 小学生時代(90年代)1. 海外旅行 バブル期の影響を受け、父の勤めていた会社では、お正月に社員の家族を含めた海外旅行が毎年計画されていました。ハワイ、グアム、シンガポール、オーストラリアなどへと1〜2週間ほど滞在しましたが、残念ながら現地の方々との直接の交流はほとんどありませんでした。名前や出身を聞かれた際の簡単な受け答えは出来ていたと記憶しています。当時はそのありがたみも理解できない年齢で

        • アメリカで生活できる英語を身につけるまで〜日本編・幼少期〜

          アメリカ生活も14年目を迎え、今では日常生活ではほぼ支障なく読み書きができるようになり、それなりに流暢に話せるようになった英語。とはいっても語学は奥が深く、まだまだ学ぶ事も多いです。ここまでに至る英語と私の関係を振り返ってみようと思います。 幼少期(90年代前半)この年齢層で、自発的に英語を勉強したい!と思うことは、ほぼないですよね。私の幼少期は90年代。調べてみると英会話教室が流行りだし、英文読解などのお堅い学習形式から、英語でのコミュニケーション能力の向上に焦点を合わせ

        アメリカで生活できる英語を身につけるまで〜日本編・高校生時代〜

        マガジン

        • Lifelong Learning - 英語-
          5本
        • 妊活あれこれ
          13本
        • Side Hustle
          1本

        記事

          お悔やみの言葉 in アメリカ

          私が流産した際に頂いたお悔やみの言葉の数々。今までそういったメッセージは送る側ばかりでしたが、今回は初めて受け取る側となりました。実際に頂いた英語でのメッセージをここにまとめてみました。 "I'm sorry for your loss." 「あなたの喪失を心苦しく思います。」 "My condolences to you." 「お悔やみ申し上げます。」 この二つは無難なフレーズ(直訳)で、私が働いているオフィスでも、誰かの親族が亡くなった時に送るメッセージカードには、こ

          お悔やみの言葉 in アメリカ

          妊活、再スタート

          流産後からは基礎体温もほぼ毎日記録して、タイミングを合わせて毎月頑張っているものの、虚しく1年が経ってしまいました。また半年以内に妊娠できるだろうと気楽に考えていたのですが、授かれていないのが現状です。32歳で妊娠、33歳で流産、そして34歳を迎え、今年も残すところわずか2ヶ月となってしまいました。先月からは排卵検査薬も併用してより正確に排卵日を把握できるようにしました。 医学的な定義によると、1年以内に妊娠できていないので不妊に当てはまるのですが、産婦人科の意見では ・一

          子宮頸管無力症

          2週間後の検診で、これが流産の原因だと診断されました。 子宮頸管無力症(かつての子宮頸管不全症)は,痛みを伴わずに子宮頸管の開大が起き,結果として第2トリメスターで生存児の娩出に至る病態である。 要するに、出産の時に痛い思いをしてようやく開くはずの子宮口が、成長する赤ちゃんの重さに耐えられずに勝手に開いてしまうということらしい。なぜそんなに子宮頸管の組織が弱いのかという原因は、あまり解明されていないそうで、ほとんどは、ただそういう体質だとか。 この症状そのものは通常の生

          心と体を自分で労わる

          誘発分娩後、2週間ほどダラダラと出血は続きました。それでも痛みはなく、順調に回復していました。心身共にダメージが大きかった事もあり、仕事は急遽、1週間の休みをもらいました。 その1週間…とにかく泣いていた以外はほぼ、夫と一緒に美味しい食事やデザート三昧でした!とにかく食べるのが好きな私たち。どんなに悲しくても、ちゃんと美味しくご飯が食べられることは、精神衛生上とても良いことでした。 公園で散歩をしたり、ベンチに座ってお菓子を食べながらぼーっとしたり。綺麗な風景を見て、家で

          心と体を自分で労わる

          言葉で表せない、命の不思議。

          疲れ切っていましたが、2〜3時間おきに血圧や体温の確認をされるため、寝れたのか寝れていないのか分からないまま翌日の退院を迎えました。 「車まで送りましょうか?車椅子もありますよ。」とナースの方が最後まで気を遣ってくれました。倦怠感は残っていましたが、体が弱っているという感覚はあまりなく、すでにかなり回復していたと思います。 「いつもはシニアの患者さんが多いので、自分で歩いて退院できる人を見送るのは久しぶりだよ!」と嬉しそうに話しかけてくれました。その話を聞き、たった今流産を

          言葉で表せない、命の不思議。

          赤ちゃんとのお別れ

          「好きなだけ抱っこして、写真も撮ってかまいませんよ。」 ナースの方達の中には、私も初めての赤ちゃんは16週で流産したの、と涙目になりながら一緒に悲しんでくれた方もいました。 「どれだけ辛いかよくわかる。でも今では息子もいて、19歳になったの。大丈夫。またこの病院で出産することになったら、私を呼んでね。」 と、なんとも温かい言葉をかけていただきました。 写真を撮るのは何だか複雑な気持ちでしたが、今となっては撮っていてよかったなと思いました。今でも見返して涙が出てくるけど、こう

          赤ちゃんとのお別れ

          流産の予兆と無知だった私

          終わった…と呆然としていると、「赤ちゃん抱っこ出来ますよ。」 と、ナースの方が小さなおくるみに包まれた赤ちゃんを連れてきてくれました。 無知な私は、お腹も大きくなかったし、16週での流産なら赤ちゃんは人っぽい形にはなっているだろうけど、まだまだ体組織の塊のような段階だろうと思っていたので、びっくりしてしまいました。すごくショッキングな対面になるのでは…? と思ったのも束の間で、私の手のひらより小さい赤ちゃんには、開かないけど目があって、口も、鼻も、手の指も5本ずつ、ちゃん

          流産の予兆と無知だった私

          初出産は誘発分娩

          そしていきなりやってきた、ベリっとお腹の中で剥がれる胎盤の感覚。10秒くらいの痛みが続き、ナースコールで痛み止めをお願いしなきゃと思うも、すでにズルッと何かが排出されたのが分かりました。 すぐにナース達が駆けつけ、テレビなどでよく見るように、分娩台の上の天井のライトがカッと点灯しました。産科のドクターも遂に登場。赤ちゃんは体外に出ていましたが、胎盤はまだだったらしく、プッシュ!プッシュして!と鼓舞されながら2−3分ほどで無事排出されました。 と同時に猛烈に中を掻き回すドク

          流産でも!どんな思い出にするかは私次第。

          誘発分娩にすると決めたところで、ようやくERからLabor & Delivery Room (産科の分娩室)へ移動することができました。そういえば、私の母は初産で誘発分娩を経験していて、激痛だったと話していたことをふと思い出しました。私には未知の世界。怖がってても仕方ないし、痛みを感じた時にだけ錯乱すればいいか…。不安はあっても、やっぱり楽観主義な私。パニクって物事が良い方向に動いた試しがないので、何もできない時は何もしないに徹するのみ。 移動用のベッドに移され産科のドアの

          流産でも!どんな思い出にするかは私次第。

          それでも赤ちゃんに会いたい!安定期での流産処置の選択肢

          朝の8時ごろ、ようやく産科のドクターが到着。16週では赤ちゃんは未熟すぎるために、助ける術はないとのこと。陣痛誘発剤を使って自然分娩での排出か、D&E (Dilation and Evacuation:子宮内容除去術)という手術をするかの二択でした。 「私はD&Eは専門外だから、そちらにするなら他の病院に移って他のドクターに手術してもらうことになるけど、どうする?色んな人に電話してみたけど、この辺りでその手術できるドクターは二人しかいないのよ〜。」 と、まさかのここでは出来

          それでも赤ちゃんに会いたい!安定期での流産処置の選択肢

          私の流産を悲しんでくれた、優しい誰か

          産婦人科のドクターの到着を待たず、ERのドクターから 「残念だけど、流産です。このまま帰宅して自然排出するか、産科のドクターが来るまで待つことになります。」 と告げられました。 えええ!こんなに大量出血してるのに家に帰します!? と思ったのですが、一旦夫に連絡。絶対に産科のドクターが来るまで待つべきと言われました。 薄々分かってはいたのに、診断として改めて流産だと告げられると、やっぱりショックでした。涙が止まらない。同じ部屋にはカーテンで仕切られたベッドがもう一つあって、そ

          私の流産を悲しんでくれた、優しい誰か

          流産は突然に

          夜中の3時ごろ、じわーっと何か温かいものを感じて目が覚めました。 あ、やばい…漏らした!?とトイレに駆け込むも、すでにパジャマまでびっしょり。でも匂いも色もない。初めての妊娠で経験値はゼロでしたが、一瞬で羊水だとわかりました。お腹も出ているか分からない程の大きさの赤ちゃん。体外に漏れた羊水の量を思い返すと、さすがに能天気な私でも、これは深刻な状態だと瞬時に感じました。夫も目を覚ましていて、速攻で緊急外来へと運転してもらいました。 車の中では、病院に行けば何とかなるだろうと