関東大震災「船橋から全国にデマ発信」

昨日の記事の続きになります。

 関東大震災直後に日本の侵略地となっていた朝鮮半島から日本のインフラのために低賃金で鉄道線路敷設など3k労働に従事されていた朝鮮の人たち(強制労働とも考えられる)の多くの人たちが虐殺されたのは、1923年9月3日朝に内務省警保局長が全国の地方長官宛に〈東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。すでに東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし〉と通達し、通達が発信されたのは千葉県船橋市にあった海軍の無線送信所「船橋海軍無線電信送信所」で、公文書は前回も載せましたがあらためてお読み下さい。

 さて、今年の6月11日に船橋市県立行田公園をフィールドワークとして訪れられた「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の平形千恵子さん(82)は碑文を前に、「公式の電波をうそだと思うでしょうか」と前置きされた上で『碑文には「関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた」とあったが、デマや虐殺事件の記述はなかった。』と指摘されています。

 ちなみに平方さんが指さされている無線塔記念碑文には次の説明文が記載されています。

説明文には「栄光の歴史を閉じた」で締めくくってあり、朝鮮人虐殺については一切触れていません。そして、「栄光の歴史」ってどういう事でしょうか。開戦や侵略が「栄光の歴史」なのでしょうか?
 そして、1923年9月3日から5日くらいにかけて、船橋では自警団による虐殺事件が多発していて犠牲者は当時、北総鉄道建設工事(東武野田線)に従事していた労働者で、平形さんは『各地の飯場に約150人の朝鮮人労働者がいて、私たちが調べた限りでは59人が殺されています」と説明され、「このうち、鎌ヶ谷の飯場の38人は船橋駅近くの現在の天沼弁天池公園で虐殺された。鎌ヶ谷の自警団によって送信所へ連行されたが、海軍は引き受けず、船橋警察署へ向かわせた。その途中で地元の自警団に襲われ、その送信所では、「朝鮮人が攻めてくる」と脅え、習志野の騎兵連隊に出動を要請、地域の自警団にも武器を渡して周辺の警戒を命じた。自警団は近くで13人を手にかけた。後年、自警団員の一人が平形さんらの聞き取りに対し「朝鮮人は殺していい」と伝えられたことや「褒美をもらえると思ってやった」ことを証言されていて、船橋で殺害された犠牲者の慰霊碑は市立馬込霊園にある。「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」。戦後間もない47年に在日本朝鮮人連盟の支部や朝鮮人有志が建立した。慰霊碑は元々、市内の火葬場にあったが、63年に移設されたという。移設が決まった際、まさかの事態が起きた。慰霊碑の下にあるはずの遺骨がなかったのだ。ある時、日本人の老人から「ここを掘れ」と教えられた場所を掘ると、約100体の遺骨が埋まっていた。隠蔽されていたのだ。「掘り返して火葬した。骨の始末がつかないのでやむなく周辺の田んぼに埋めた」ことを元警官が証言したこともわかった。「上司の指示」だったという。老人はこの作業に関わり、埋めた場所を地図に記し、仏壇に長く保管していた。』と、、
 
 さて、いずれにしても無線塔記念碑の碑文に「朝鮮人虐殺」について一切、記されていないというのはおかしな事例で、そしてこの記念碑については、なんと「情報伝達の質・量を飛躍的に拡大させ社会変革をもたらした電気通信技術」として経産省の近代化産業遺産群に入れてあり、お墨付きがあるということでも戦争賛美を政府が率先しているという事になるでしょう。
 そして、これらの遺産群の多くは朝鮮の人たちや中国の人たちの労働によって遂げられたと言っても過言ではないでしょう。
 そして、8月31日の松野博一官房長官の記者会見においては過去に政府の会議が報告書で朝鮮人虐殺を認定していることについて「(報告書は)有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」と述べ上記の流言卑語のデマ公文書を否定しているのです。

(つづく

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