福島第一原発の「廃炉」は机上論である。

 先日、大島堅一氏の環境哲学ちゃんねるを視聴していたら、東京電力の福島第一原発の「廃炉」は「絵に描いた餅」と言われていた。まったくそのとおりであると私も思っている。東京電力は40年や50年で「廃炉」できると考えて、道筋を福島県民を中心にして国民に絵を描いているのだ。その様子にせっせと会見に臨むマスコミメディアの人たちの心理やいかにと会見を毎回見ている私は思うのだが。
 そして昔の会見にはIWJも熱心に通って質問されていたが、このところスタッフの顔も見ないし、代表の岩上氏も✖でも追及しなくなった。ひと頃は連続ポストされていた。
 では何故、東京電力や政府はできもしない福島第一原発の「廃炉」が40年や50年で達成できて、あの広大な敷地が更地になるというのであろうか?これらについて、毎日新聞も記事を書いているので登録されている方は全文をお読みになってみて下さい。



 

 私などは300年経っても無理ではないかとさえ思っています。燃料デブリだけでも880トンもあるのですよ。これは現在、行われているあちこちの廃炉工程の何倍でしょうか、例えば事故を起こしていない、デブリも落ちていない、1966年、日本初の商用炉でもある日本原電の東海発電所でさえ、いまだに廃炉は終了していないのですよ。

 それが、燃料は溶け落ち、放射能はバラまき、福島県民には避難させて、生業は奪い、第一産業は崩壊させ、それでも「廃炉」という名目だけで企業を成り立たせ、そのつけを国民に電気料金として上乗せして、あるいは、税金の一部として払わせて、事故の責任の一部を国民のせいにしている日本政府っていったいなんなのと言いたくなる毎日です。
 今日の最後に大島さんの話しでもお聞き下さい。


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